闇夜(やみよる)5

「君たちは、初めての戦後生まれの高校生だ」
 新学期が始まって初めて1年9組の教壇に立ったスドウは、このような言葉から授業をはじめようとした――君たちは、今年15歳。つまり、私たちのような年長の人からすれば、君たちと出会うことは初めてあの戦争を知らないこどもたちと出会うことになる。君たちがこうしてごく普通に高校生になれたのは当たり前のことでも、ごく普通のことでもない。それはひとつの歴史的な事実でもあるのだ。いや、君たちが高校生になったのは、ひとつの歴史的な事件なんだ。そうだ。歴史というのは、過去についての話だけには留まらない。歴史は今!この瞬間においても流れ続け、作られ続けている…つまり、君たちは歴史の最先端にいるんだ。
 歴史家の多くがロマンティストであるというのは事実に等しい。スドウもまた同様であって、授業の最初の一言でこのように熱のこもった語りをおこなってしまったのも、その性格によるものだった。スドウは今年60歳を迎える。来年の3月には30年以上に及ぶ教師生活にピリオドを打つ。自分の教員生活の最後の年に、戦後初の高校生を教えられることを彼は光栄に思う。戦争を知らないこどもたち。穢れのないこどもたち。
 ここでスドウは改めて教室全体を見回し、生徒ひとりひとりの顔を確認する。そして、彼はひとつの事実を知る。
 スドウの話に耳を傾ける生徒は一人もいなかったのだ。教壇のほうを向いている者は誰もいない。誰もがみんなバットマンに夢中だった。彼らにとって、今この瞬間一番重要だったのは、スドウの授業のことではなかった。バットマン。彼らの情熱のほとんどがバットマンに注ぎ込まれていた――郊外に大きな幽霊屋敷みたいなのあるじゃん?あれがバットマンのアジトなんだってさー。えー、ホントに?じゃあさ、今週の金曜日確かめに行こうよ。3組の男子がこの前バットマンに会ったんだって。意外に良い人だったらしいよ。サインにも気軽に応じてくれたって。バットマンは実は幽霊らしい。しかもほら、この前死んだ窪塚くんの。
 スドウは愕然とする。これは明確な、悪意に満ちた、教師に対する侮辱だ。バットマン?なんだ、ソイツは。それは俺の授業よりも大切なことなのか?輝くロマンティシズムは一瞬で生徒たちへの怒りに変る。それは憎悪にも近い感情だ。これが戦後世代ってなのか?こんな子どもたちが生まれてくるなら戦争は続けられるべきだった。さっきまでの慈愛のこもったまなざしの奥底には、今や炎が燃えていた。春の日差しのようなまなざしは、雷のような鋭さに変る。コイツらは、穢れを知らないのではない。傷ついてこなかっただけなのだ――スドウはそう思い、革の手袋をはめた右手を少し見つめた。
 節くれだち熟練の肉体労働者のように老いた左手の印象と、手袋の下にある右手の印象はまったく違っている。右手は、デビューしたてのコンサート・ピアニストのように繊細で若い。戦場となった旧都を彷徨う最中、爆撃機によって破壊された高層ビルの残骸に下敷きとなったときスドウは右腕を失った。失った右腕の不自由は、戦後になってからすぐに再生医療によって回復する。しかし、何もかもが元通りになったわけではない。生まれたての瑞々しさをもった右腕は、中年のスドウの顔には相応しくなかった。だから、スドウは傷のない右腕を隠していた。まるで醜い傷跡を隠すかのように。
 この子たちは私の右腕と同い年だ。スドウは再び心のなかで一人言ちる。しかし、彼らは痛みを知らない。その違いが私と彼らの間に大きな隔たりを作る。もはやスドウは情熱などもたない。約束されていたはずの栄光の1年はものの5分もしないうちに否認された。歴史を教える熱血教師というロール・モデルをスドウは既に捨てていた。彼は決意を固める。戦争を知らないこどもたち。痛みを知らないこどもたち。彼らの前で歴史を物語るマシンとなろうとする。

そうさ おいらは ロールピアノ
コインを入れたら 演奏するぜ
ブゾーニよりも 正確さ
リストも ショパンも お手の物
ラフマニノフも 完璧だ
そうさ おいらは ロールピアノ
素敵なマシン 未来のマシン

 そうだ、スドウ、その選択は正しい。お前ほど優秀な歴史の語り手は存在しない。お前があのとき感じた熱い痛みは、文字の羅列に過ぎない歴史のテキストに肉を与える。受肉されたテキストはそのとき、物語と化すだろう。それはおそろしく早く流れる。お前は15歳のとき、大雨で増水した川があっという間に子犬を流していったのを見たことがあるだろう?しかし、お前があのとき感じたのは恐怖ではない。圧倒的な流れ、すべてを押し流す水の流れがもつ力強さはお前に感動を与えた。覚えているはずだ、橋の上で川の流れを見つめるお前の視線と子犬の視線が一瞬交わり、次の一瞬でもう子犬は視界から消え去ったあの映像を。あの速度を。そして今、お前は長い教員生活のなかであの速度を身に付けてしまっている。それを解放しろ。非情になるんだ。聞く耳を持たない生徒など相手にする必要はない。
「いけない、いけない。大事なものを忘れてしまった。ちょっと職員室に忘れ物をとりにいってくるから、少し待っているように」
 スドウはそう言って教室を離れた。すぐに休み時間のような騒がしさが教室内に木霊する――知ってた?バットマン北日本から潜入したテロリストらしいよ。それ、俺も聞いたことがあるなあ。ウチのお父さんが言ってたんだけど、バットマンは完全な愉快犯っていう感じで警察は捜査してるんだってー。ほら、被害者に接点があまりないじゃない?バットマンバットマンバットマン…。スドウが教室に再び入ってきたときにも、教室にはまだ騒がしさの残余が残っているかのようだった。
 彼が持ってきたのは、一冊の古ぼけたノートだった。そのページはどれも黄ばんでいて、縁の部分はもう直線とは呼べないほどの綻びが生じている(『メモ』とだけ書かれた表紙は既にとれかかっていた)。教壇に立ったスドウは、いつも参考にしている受験対策用のテキストを隅に置き、代わりにそのノートを開く――これを開くのは、自分でも久しぶりだった。ページいっぱいに隙間なく書かれた膨大な量の走り書きが、スドウの目に入ってくる。15年前に傷のない右腕で書き上げたメモを「懐かしい」とスドウは思う。
 スドウは一旦顔をあげ、また生徒一人一人の顔を眺めた。そして、誰も自分の話を聞こうとしないでいるのを確認すると、咳払いをひとつして語り始めた。25年前におこったあの戦争のことを。この国のすべてと世界の一部を変えてしまった戦争のことを。