闇夜(やみよる)39

 ある朝、MJが子供たちに囲まれた楽園から目をさますと、自分が大きな装置の中で一人の白人に変わっているのを発見した。彼は鎧のように堅い床に背をつけ、あおむけに横たわっていた。鼻の横に幾本かの冷たい筋が入っていて、顎のラインは鋭さを増している。鼻の横の厚い皮のような肉はいまにもずり落ちそうになっていた。「これはいったいどうしたことだ」と彼は思った。夢ではない。彼はあの夜を境に変わったのだ。

 MJは軍の研究員であった。彼は戦争の後始末に追われていた。偽りの平和と知りながらも任務に忠実に、彼は自分が手を貸した殺人兵器プロジェクトの卵たちを「条約」に基づいて処理していた。ナインインチネイルズ、削除。ヘアカット100、削除。カジャグーグー、削除。モノクロームセット、削除。電脳にインしながら作業を進める彼に本部からメールが入った。MJの電脳には攻性防壁「スクリーム」が待ち構えていて侵入者を見張っている。メールをスキャンしてセキュリティを確保してからそれを自分の電脳の認識エリアに流し込んだ。

 「今夜22時にニュー千葉シティにあるバー『パープルレイン』に行け」

 彼は時間に余裕があったのでふたたび電脳に没入し作業を続けた。彼がいる部署には同じ職務に従事する同僚が100人ほどいたが、お互いの素性を探らないのがルールだった。顔のない白いブースの並列。そこに影はなかった。

 『パープルレイン』は旧千葉駅東口の中華料理屋『王将』の二階にある小さなバーだった。旧千葉駅西口から市原に帯状に連続していたコンビナート群は北日本の爆撃と破壊工作によって消滅していた。東口の一帯は暴徒と化した者、職に求める者、酒に溺れる者によって濁った賑わいをみせていた。MJは約束の時間の一時間前に『パープルレイン』のカウンターで青島ビールのはいったグラスを傾けていた。カウンターには彼のほかには青いドレスを着た女が背中を向けて音楽に身をゆだねているだけだった。MJが鼓膜で音楽を聴くのは久しぶりだった。

 ナッツを噛んでいたMJの隣のスツールに顔色の悪い男が腰を掛け「MJ…ですね」と細い声で言った。MJが「どうしてわかる?」と返すと男は「黒いから…」と言いコードネームを名乗った。彼らは名前を持たない。男のコードネームは「TK」。色を抜いた長髪をかき上げながらTKは「盗聴されている可能性があります。これからは有線でお話します」と言った。MJはTKの差し出したジャック、通称「いとでんわ」を耳の穴に突っ込んだ。

 TKのデジタル化された声が電脳に流れ込む。MJは音声コード変換プログラムを走らせ、メモリーに書き込んだばかりのTKの声帯を再現した。「MJ。あなたに任務をお伝えします。あなたは24時間以内にご家族と共に鳥取に赴いて特殊任務に就いていただきます」「どういうことだ。私には家族などいない」「これがたった今からあなたの娘です」「これは?」MJの電脳にカプセルに入った赤ん坊の映像が流れてきた。あどけない笑顔だった。

 「『クローソー』です」「馬鹿な!伝説の戦士Perfumeがこんな赤ん坊だというのか!」「原因と現象は不明ですが間違いなく『クローソー』です。DNA値。BPM値。すべての数値がクローソーを示しています。それに…」一瞬、TKは「肉声」で笑った。「機関の結論です。あなたに反論の余地はない」「『セカンドインパクト』から生み出した悪魔…」「それはちがいます、MJ。我々の『切り札』です」

 TKから任務の詳細がMJに送られてきた。MJの攻性防壁「スクリーム」が綿飴のように千切られた。「…。この子を私が預かればいいのか」TKは沈黙で応じた。「鳥取なら北の脅威や干渉からは避けられるかもしれない。しかし第二の『セカンドインパクト』、いや『サードインパクト』が起きたらどうするつもりだ」「我々には『月光蝶』があります」「『月光蝶』…完成しているのか?」「ご安心を。私の部隊ORUMOKが既に鳥取に潜入し、『月光蝶』は既にスタンバイ段階に入ってます」「万が一のときは鳥取ごと『クローソー』を処分するつもりか…」「MJ、『月光蝶』はあくまで保険です…。あなたには私が用意した5億円をもって『クローソー』と共に鳥取に行くしか選択肢はない。さもなければ…」

 「さもなければ?どうなるというんだ」「あなたは児童虐待の罪で軍法会議にかけられる」「可愛いチャイルドと同じベッドに入ってなにが悪いんだ…」「MJ…鳥取に行けばあなたは永遠に潔白だ。白くなれるのです」「白く…」と力なく呻いたMJにひとつの疑念が生まれた。

 「ひとつ質問していいか?」「簡潔にお願いします」「さっきあなたは『家族』と言った。『家族』とは『クローソー』だけか?」「いい質問です、MJ。あなたにはこの命令を受けた瞬間から『奥様』がいる」MJは電脳の海を泳いで戸籍データをサーチして自分の配偶者の項に見知らぬ女性の名前がリライトされているのを確認すると「これは誰だ?」と言った。「あなたと『クローソー』の身の回りの世話をする任務に就く者です。すでに薬物でマインドコントロールされてます」「おまえたちは人間じゃない」「我々はもう悪魔の一部なのですよ、MJ」TKは有線交信を断ち切った。「あなたたちは早く旅の準備をすべきだ」それだけ言い残すとTKは足早に去っていった。『パープルレイン』の入り口にはTKの用心棒がいた。そのドレッドヘアの下、黒く光る大きなサングラスがMJの眉間に照準を定めているのがMJにはわかった。

 MJの背中にいた青いドレスの女が彼に声を掛けてきた。「鳥取にいく準備をしましょう。ダーリン」「君は?」「倖田梨紗。いいえ…この店の扉をくぐったときから西脇梨紗。西脇マイケル、それがあなたの新しい名前。私はあなたの妻よ…行きましょう。鳥取で白くなりましょう」女の目は焦点を失っていた。

 白くなった彼と妻と子。親子三人はうちそろって家をあとにした。鳥取に向かう電車のなかには三人のほかに客はだれもいなかった。降りる場所に来た。暖かい日がさんさんとさしこんでいた。鳥取駅。焦点の合わない妻の腕のなかで娘、西脇綾香が若々しい手足をぐっと伸ばした。その様子は、西脇夫妻の目には、彼らの新しい夢とよき意図の確証のように白く映った。