闇夜(やみよる)38

「歴史?」
 シャマランは聞き返した。あまりにも大袈裟で、概念的過ぎる名を名乗った男の神経が正常なものかどうか測りかねたのだ。
「そう。歴史だ」
 男は繰返した。
「気になるか?」
 男の問いかけに対して、シャマランは黙ってうなずいた。
「じゃあ、少し俺の話をしてやろう。俺がなぜ歴史なのか。文字通り、俺は歴史なんだよ。今俺たちがいる日本列島のなかに2つの国が生み、世界の一部を変えたあの戦争を含んだ歴史は俺そのものなのさ――こんな風に話してもまだお前には理解ができないだろうがな。この話を理解するには、ちょっとした忍耐が必要だ。お前が話を聞いていたあの嘘つき先生には、それがちょっと足らなかった。だから、こんな地下に落ちちまったんだよ。
 セカンドインパクトを知ってるか?あの戦争よりも随分前の話になるが、あのとき俺はオホーツク海の蟹漁船の乗組員のひとりに過ぎなかった。しかし、あの日以来俺は一種の予知能力のようなものに目覚めたんだ。まるで壊れたラジオだ。ひとりでに向こう1ヵ月に起こる出来事の情報が頭のなかに流れ込んでくる。何人もの科学者が俺を調べに来たよ。実際に検査とか実験の相手まではしなかったがな――ヤツらが調べた結果も予知できたから、先に調査結果を書いて送ってやったのさ」
「ちょっとまってくれ、セカンドインパクトなんかもう100年近く前の話じゃないか。とてもあんたはそんな歳には見えないが……」
 シャマランは歴史という名を名乗る男の話を途中で区切るようにして訊ねた――そうでもしなければ、理解が容易ではないと思われたのである。
「その質問も予期できていたよ」
 男は答えた。依然として男の顔は髪の毛に覆われたままで表情を伺うことはできなかったが、シャマランをまっすぐに見据える蒼い目がかすかに笑っているように見えた。
「俺はあのときから歳をとっていないんだ。俺の体内の60億個の細胞のひとつひとつが、あの日からほぼ入れ替わっていない。樹脂コーティングされて劣化しなくなった剥製みたいなものさ。あの瞬間に、俺を流れる時間はとまった。いや、時間が俺を無視するようになったという言い方のほうが正確かな。しかし、それはこの世界の論理として正しくない。古代のギリシャ人が言うように、万物は流転するんだよ――だから、俺は時間が俺を無視できないようなことをしようと思い立ったわけだ。簡単だったね。俺には予知能力があった。株の動きなんか端から俺には分かっていた。俺は与えられる情報に従って投資を繰返しているだけで、気が付けば世界中の誰よりも金持ちになっていた。蟹獲り漁船の船員だった俺がだ。そして、俺は世界を動かすに足る権力を手にした。忙しかったのは、その後だ。俺は日本のカルト宗教が生み出した洗脳技術を受け継いだ科学者たちを買収しなきゃいけなかったし、日本の大学から2人の科学者たちを誘拐させなきゃいけなかった。それから、世界中で溢れていた傭兵たちを雇ってやらなきゃいけなかったし、日本の政治家たちとも会合しなきゃいけなかった。そして、ヤツらに戦争をおこさせた。歴史は弁証法的運動だ。大昔、ドイツのド田舎にいた哲学者がそんなことを言っている。俺が時間を動かそうとして戦争をしかけたのも、その論理に則したものだったかもしれない。歴史は一旦否定がおこなわなければ、運動をおこなわない。俺は俺を流れる時間を動かすために、歴史を否定するために、時間が俺を認めるようにあの日から動いてきた。俺の体中にある傷はその代償みたいなものだ。しかしだ、次第に俺は気付き始めていた。時間、歴史がむしろ俺になりつつあるのだ、と。」
 クククク……と男が忍び笑いをしているのを、シャマランは認める――その声はジオフロントのコンクリート内壁によって反響され、実際よりも大きく、そして不気味なものになってシャマランの耳へと届いた。しかしいまだにシャマランはまだ男の頭が狂気におかされたものであるのかどうかを、彼の言葉から判断することができなかった。
「あんたはセルゲイ・オマンコーノフなのか?」
 シャマランがそう言うと、男の笑い声は一層大きくなった。
「その名前を聞くのは久しぶりだな。以前、そんな名前を使っていたこともある。だが、さっきも言ったとおり、ここでは名前なんかなんの意味も持ちやしない。それはお前も知っているだろう。デンマーク系インド人であるお前が、シャマランと呼ばれていようが、お前のペンネーム、村上F春樹と呼ばれていようが、何の意味もない。それは俺がオマンコーノフと呼ばれていようが、歴史と呼ばれていようが関係ないのと同じことだ。そんなことよりも、村上F春樹、いや、シャマランと呼んだほうが良いのか?お前は、お前が書きかけていた歴史の続き、嘘つき先生が語れなかった歴史の続きについて興味があるだろう?俺が今日お前の目の前に現れたのは、俺がその続きを教えてやろうと思ってのことだ。どうだ、聞きたいか?」
「僕がどう答えるか、もうあんたには分かっているんだろう?」
 男に対してシャマランは答える。すると男は止めていた忍び笑いを再開し「そのとおりだ」と言った。
「しかし、まだわからないことがある。あんたは、それを僕に語ってどうするつもりなんだ?」
「歴史は書き留められ、あるいは物語られることによって歴史と化す。これも大昔、ドイツのド田舎にいた哲学者が言っていた言葉だ。俺も歴史ならそのようにされておくのが世の理なんじゃないか?そして、今はそのときなんだよ。歴史は否定されなければ運動をはじめない。俺という歴史が今、新たに否定されるその瞬間がもうすぐに来る。その前に俺は、いまだ記録されていない部分についても誰かに語っておかなければいけないんだ」