闇夜(やみよる)44

 「移動だ、移動がはじまったのだ」と男はポケットを落ち葉でいっぱいにしながら歩道橋の下を絶え間なく走る長距離トラックに向かって呟いた。福島県山形県をつないだ新国道13号を移動する大きな車体が男の濁った目には、アフリカのサバンナを駆けるヌーの群れに映る。
 いま、男は大自然を生きる動物の生態を調査する動物学者だった。トラックのマフラーから吹き出された黒煙は乾いた大地の砂煙、アスファルトとタイヤが摩擦するゴリゴリという騒音は彼らの生命の主張だった。ついさっきまで、頑なに自らを骨相学の創始者であるフランツ・ガルであると言い張ってやまなかったこの男を、誰も気に止めなかった。ましてや彼がかつて、北日本独立紛争時の勇士、ブルース・ウェインであることなど分かりようがない。みすぼらしく汚れたコートの袖に収まった腕は醜く萎縮し、薬物の影が彼の全体を覆う。彼の象徴であった巨大な男根さえ、干物のように股の間にぶら下がるだけの無意味な存在へと変容している。
 東京が制圧され、全日本政府が鳥取で臨時政府を樹立してから半年が経った。この間、紛争は小康状態にあり、武力衝突は一切おこらなかった。だが、いまだ終戦のための調印や紛争の勝利宣言はおこなわれていない。これが寒い冬の季節に唐突にやってきた小春日和のようなつかの間の安息であることは全日本側でも北日本側でも予感されていた。
 しかし、ブルース・ウェインは違った。血と暴力の祭典のような期間が過ぎ、この静かな時間のなかで彼だけが絶望していた。自分が倒すべき相手も、殺すべき敵も現れない短期間に彼は一気に気力を失ってしまったのだ。もっと血を!もっと殺戮を!――吸い込まれてしまいそうな深い闇に向って彼は叫び、得ることができなくなった快楽の代替を薬物に求めた。そして、七色に歪んだ幻像のなか、彼は現実には存在しない他者の血を流し続けた。
 理性はとうに擦り切れていた。次第に彼は自分が何を求めていたかも忘れ、放浪を始めた。自意識のめまぐるしい変革が始まったのは、この頃からでもはや自分が戦士であったことすら定かではなかった。とにかく彼は今、動物学者であり、ヌーの群れが猛々しく移動する姿を網膜に焼け付けなくてはならない。ヌーは年に1度、出産のためにサバンナを大移動する。その旅路のなかで群れと群れは合流を繰り返し、最終的には数万から数十万頭へと膨れ上がる。これほどまでに大きなコミュニティを作って生活をおこなう生物は蟻や蜂の仲間のほかは人間しかいない。しかし、その移動集団社会には雌のみが参加を許される。ファロスなき社会。彼女たちの移動は、すでに失った虚像の男根を追い求める彷徨なのである。
「ぶざまな姿ね、バットマン
 この狂気の後姿に声をかけた女がいた。だが、男はその声を無視する。というよりも正確には認識できない。女の声は、タイヨウチョウのさえずりにしか彼には聞こえない。男にとって鳥類は興味がわかないものだった。鳥類は鳥類学者の仕事、私の仕事ではないのだ。女はため息をつき、そして男の肩に手をかけ強引に自分のほうを向きなおさせようとする。彼の肩はおどろくほど薄く、力がなかった。かつてバットマンと呼ばれたこと男を知る女は、その非力にぞっとする。
「なんだね、君は!私の仕事を邪魔しないでくれ」
 口角に泡を浮かべながら怒鳴りつける男の表情に、女はまたため息をつかざるをえなかった。
「どうやら、本当に覚えてないみたいね。さすが湿った目をした男だわ、ヤツが嗅ぎつけた噂どおり、バットマンは廃人同様……でも、私は私の仕事をしなくては……」
 女はもはや男に話しかけてはいなかった。だが、男は女の言葉に過敏に反応する――「会ったばかりで人を廃人呼ばわりとはなんて無礼なんだ!」。男はそう叫びながら女に掴みかかろうとする。女はそれを軽く避け、その際に男のわき腹に拳を一発お見舞いした。完璧に決まったボディ・ブロー。衝撃が肝臓を突き抜けて、一瞬で男は意識を失う。
「あなたには、まだやってもらうことがあるの」
 崩れ落ちた男の背中に女は言葉をかける。


 男は囚われている。場所は、青森県鯵ヶ沢。そこには北日本の軍事施設「ACID TANK」があった。男の両手両足は鎖で繋がれ、男は一日に5時間のトレーニングを強制され、投薬され続ける。しかし、男の静脈に注がれる緑色をした液体は男の血を薄める類の幻覚剤ではない。「これはな、さまざまな筋肉増強剤や栄養剤を混合したスペッシャルなクスリなんだよ、ヘッヘッへ」。最初、糞原淋太郎と名乗る男は囚われの男にそう説明した。いまだ正気を失った状態でいる囚われの男に、その説明は無意味だったにも関わらず。
 糞原は囚われの男を治療すると言った。その言葉通り3ヶ月もすれば、囚われの男は以前そうしていたように自分のことを動物学者やフランツ・ガルだと思い込まなくなった。だが、ブルース・ウェインの自意識が元通りになったわけではない。治療の間、バットマンと呼ばれ続けてきた彼は、自らの名をバットマンだと認識する。ブルース・ウェインの記憶は一切が消失する。アメリカの大企業の若い経営者という身分を捨てて、血と暴力のために極東の地に赴いた記憶が。そして、男の、バットマンの意識のなかで、血と暴力を求める欲求だけが純化していく。
 糞原がリハビリと呼ぶ毎日のトレーニングが、バットマンは待ち遠しい。地下に建設された古代ローマ時代の闘技場のような空間で、バットマンは毎日犬を殺す。もちろん犬は通常の飼犬ではない。戦闘用に交配が進められ、教育された軍事クローン犬「WSO-172」がバットマンのリハビリ・パートナーだった。捨てられた羽毛布団から詰め物が飛び出したような白い毛を持つ、その凶暴な犬の生命をバットマンは奪う。喉笛を狙うWSO-172の頭蓋を拳で粉砕する。腕に噛み付いてきたWSO-172の頚椎をへし折る。闘技場の床が犬の血で汚れ、施設のごみ捨て場には日々、ずたぼろになった犬の死体が積み上げられていった。
「さすがはバットマンです。逸材だ。いまやヤツこそインドラの化身といって過言ではないでしょう」
 糞原は女に治療の経過を報告する。女は施設のオフィスにある黒革張りのソファに身を預けながら、黙ってそれを聞いていた。
「それで?もうバットマンは実戦にも使えるぐらいまで回復しているの?」
 冷たい口調で女は訊ねる。
「もちろんですとも。今のバットマンにはあなたのような特殊戦でも適わないかもしれません……菊地凛子さま、ヘッヘ」
「そう」
 男の下卑た話し方を女は不快に思いながら、女は言った――「明日、バットマンの治療を終わらせるわ」。


 次の日の朝、女は地下室に囚われたバットマンの前に現れる。
「あんた、どこかで会ったことがあるな。誰だ?何の用だ?まだ、リハビリの時間には早いはずだぜ?」
バットマン。もう犬コロと遊ぶのはおしまいよ。その代わり、あなたに仕事をあげる。あんたの大好きな殺しの仕事よ。セルゲイ・オマンコーノフ。この男を殺して欲しいの」
「誰だ、そいつは?」
「あなたは何も知らなくて良いの。ただ、ヤツを殺してくれればそれで良い。どんなことをしても良いわ。とにかく、ヤツの息の根を止めて」
「……そいつはどこにいるんだ?」
鳥取よ、足は用意してあるわ」
 2時間後、黒塗りの特殊装甲車が鳥取に向って時速280キロメートルで疾走している。