闇夜(やみよる)45

ねえ 綾香


あたし達の出会いを覚えてる?


あたしは運命とか


かなり信じちゃうタチだから


これはやっぱり運命だと思う


笑ってもいいよ


あたし達の出会いを覚えてる?


 鳥取の町はいつの間にか、バットマンが暴れ回るようになっていて、電車が走ったり止まったり。結局、今日も学校まで行くのに5時間もかかってしまったけど綾香との会話を盗聴したファイルを聴いていたあたしは少しも退屈しなかった。だけど綾香は自分のことばかりしゃべってあたしの話は少しも聞いてくれてなかったね。ときどき意味不明だし。今だって鳥取駅の改札前でおしゃべりをしていたのにバットマンホテルニューオータニを爆破しにくるって聞いた途端、レンから借りたギブソンフライングVを担いで北口へと飛び出しちゃったね。


 ねえ 綾香 あたしは今、あなたを後ろから見つめている。怪人との戦いで擦り切れた白い夏の制服。つむじ風に翻る短いスカート。肩に担いだフライングV。美しい戦いのミューズ。あたしたちのクラスメートだった小向美奈子を覚えてる?ミナコだよ?もっとも、素行不良な感じのコで、窪塚君アイキャンフライ事件のあと、ひっそりと学校を辞めてしまったから、綾香はもう覚えてはいないかもしれないけれど。ミナコ、コンドームに入れた覚醒剤を性器に隠し持って国道9号線を歩いていて逮捕されたんだって。そう あたしたちが夏が始まる前、肩を並べて海を彩る光を見たあの白兎海岸の近くで。クラスのみんなは誰もミナコのことを思い出そうとしない。あんなに綺麗だったミナコが住所不定なんだよ。ミナコのガラスの靴はなんで途中で脱げたんだろうね。


 鳥取有数のホテルが燃えている。綾香。バットマンが来るよ。爆風と爆音ですらも綾香を引き立てる脇役に過ぎない。バットモービルが来るよ。フライングVを振り回しながら綾香が黒い変態チックな車に突進していく。そして歌う。「バイト代どおしてくれんのおおおおお!あとニコラスの仇いいいいいい!」フライングVがバットモービルに振り下ろされる。中学の修学旅行。真夏の長崎を二人で抜け出したときのことを覚えてる?通り雨にあたしたちは打たれて石階段の上にあった名前もない教会に逃げ込んだよね。あの荘厳な鐘の音。今、バットモービルからはあの鐘の音がしたよ。ガゴンガゴン。あの鐘に合わせて口ずさんでいたメロディーをもう一度聴かせてよ。そしてあたしは声を出してしまう。「綾香…その黒い変態をぶっ殺せっ!!!頭潰せっ!!!」 


もしも綾香が男だったら


一世一代の恋が出来るのに


あの頃あたしはよくそう思ってた


だけどそしたらこんな楽しい


思い出ばかりにはきっとならなかったよね


恋に痛みはつきものだから


溺れてゆく程苦しいものだから。


 バットマンに逃げられた綾香が肩で息をしている。まさか、潰したはずのバットモービルからバイクが飛び出してくるなんてね。あたしは綾香の肩を包む。駅前のロータリーはバットマンに襲撃され怪我をした人や死体であふれ始めたよ。綾香。おつかれさま。今日は帰ろう。南口の方で爆音がする。また何かが破壊されたらしい。綾香の手の下に力なくぶら下がったフライングVが乾いたコードを鳴らしたようにあたしには思えた。


 「ミキ?」「ん?」「また逃げられちゃった…」「次はやれるよ」「うん…」そうだよ綾香。次はバットマンを倒せる。今日だっていいところまでいったんだから。もう夏は終わる。学校は学園祭に向けて大騒ぎになる。今年の会場は変な仏像のある鳥取城址。夜中に目が光るってウワサのヒゲ仏像のあるあそこ。「ロミオとジュリエット」頑張ろうね綾香。


ねえ 綾香


あたし達の出会いを覚えてる?


あたしはかなりのタチだから


綾香がネコであったらなんて


ベッドのなかで想像しながら


身体の芯を熱くしていたりしたんだ。


笑ってもいいよ


あたし達の出会いを覚えてる?

闇夜(やみよる)44

 「移動だ、移動がはじまったのだ」と男はポケットを落ち葉でいっぱいにしながら歩道橋の下を絶え間なく走る長距離トラックに向かって呟いた。福島県山形県をつないだ新国道13号を移動する大きな車体が男の濁った目には、アフリカのサバンナを駆けるヌーの群れに映る。
 いま、男は大自然を生きる動物の生態を調査する動物学者だった。トラックのマフラーから吹き出された黒煙は乾いた大地の砂煙、アスファルトとタイヤが摩擦するゴリゴリという騒音は彼らの生命の主張だった。ついさっきまで、頑なに自らを骨相学の創始者であるフランツ・ガルであると言い張ってやまなかったこの男を、誰も気に止めなかった。ましてや彼がかつて、北日本独立紛争時の勇士、ブルース・ウェインであることなど分かりようがない。みすぼらしく汚れたコートの袖に収まった腕は醜く萎縮し、薬物の影が彼の全体を覆う。彼の象徴であった巨大な男根さえ、干物のように股の間にぶら下がるだけの無意味な存在へと変容している。
 東京が制圧され、全日本政府が鳥取で臨時政府を樹立してから半年が経った。この間、紛争は小康状態にあり、武力衝突は一切おこらなかった。だが、いまだ終戦のための調印や紛争の勝利宣言はおこなわれていない。これが寒い冬の季節に唐突にやってきた小春日和のようなつかの間の安息であることは全日本側でも北日本側でも予感されていた。
 しかし、ブルース・ウェインは違った。血と暴力の祭典のような期間が過ぎ、この静かな時間のなかで彼だけが絶望していた。自分が倒すべき相手も、殺すべき敵も現れない短期間に彼は一気に気力を失ってしまったのだ。もっと血を!もっと殺戮を!――吸い込まれてしまいそうな深い闇に向って彼は叫び、得ることができなくなった快楽の代替を薬物に求めた。そして、七色に歪んだ幻像のなか、彼は現実には存在しない他者の血を流し続けた。
 理性はとうに擦り切れていた。次第に彼は自分が何を求めていたかも忘れ、放浪を始めた。自意識のめまぐるしい変革が始まったのは、この頃からでもはや自分が戦士であったことすら定かではなかった。とにかく彼は今、動物学者であり、ヌーの群れが猛々しく移動する姿を網膜に焼け付けなくてはならない。ヌーは年に1度、出産のためにサバンナを大移動する。その旅路のなかで群れと群れは合流を繰り返し、最終的には数万から数十万頭へと膨れ上がる。これほどまでに大きなコミュニティを作って生活をおこなう生物は蟻や蜂の仲間のほかは人間しかいない。しかし、その移動集団社会には雌のみが参加を許される。ファロスなき社会。彼女たちの移動は、すでに失った虚像の男根を追い求める彷徨なのである。
「ぶざまな姿ね、バットマン
 この狂気の後姿に声をかけた女がいた。だが、男はその声を無視する。というよりも正確には認識できない。女の声は、タイヨウチョウのさえずりにしか彼には聞こえない。男にとって鳥類は興味がわかないものだった。鳥類は鳥類学者の仕事、私の仕事ではないのだ。女はため息をつき、そして男の肩に手をかけ強引に自分のほうを向きなおさせようとする。彼の肩はおどろくほど薄く、力がなかった。かつてバットマンと呼ばれたこと男を知る女は、その非力にぞっとする。
「なんだね、君は!私の仕事を邪魔しないでくれ」
 口角に泡を浮かべながら怒鳴りつける男の表情に、女はまたため息をつかざるをえなかった。
「どうやら、本当に覚えてないみたいね。さすが湿った目をした男だわ、ヤツが嗅ぎつけた噂どおり、バットマンは廃人同様……でも、私は私の仕事をしなくては……」
 女はもはや男に話しかけてはいなかった。だが、男は女の言葉に過敏に反応する――「会ったばかりで人を廃人呼ばわりとはなんて無礼なんだ!」。男はそう叫びながら女に掴みかかろうとする。女はそれを軽く避け、その際に男のわき腹に拳を一発お見舞いした。完璧に決まったボディ・ブロー。衝撃が肝臓を突き抜けて、一瞬で男は意識を失う。
「あなたには、まだやってもらうことがあるの」
 崩れ落ちた男の背中に女は言葉をかける。


 男は囚われている。場所は、青森県鯵ヶ沢。そこには北日本の軍事施設「ACID TANK」があった。男の両手両足は鎖で繋がれ、男は一日に5時間のトレーニングを強制され、投薬され続ける。しかし、男の静脈に注がれる緑色をした液体は男の血を薄める類の幻覚剤ではない。「これはな、さまざまな筋肉増強剤や栄養剤を混合したスペッシャルなクスリなんだよ、ヘッヘッへ」。最初、糞原淋太郎と名乗る男は囚われの男にそう説明した。いまだ正気を失った状態でいる囚われの男に、その説明は無意味だったにも関わらず。
 糞原は囚われの男を治療すると言った。その言葉通り3ヶ月もすれば、囚われの男は以前そうしていたように自分のことを動物学者やフランツ・ガルだと思い込まなくなった。だが、ブルース・ウェインの自意識が元通りになったわけではない。治療の間、バットマンと呼ばれ続けてきた彼は、自らの名をバットマンだと認識する。ブルース・ウェインの記憶は一切が消失する。アメリカの大企業の若い経営者という身分を捨てて、血と暴力のために極東の地に赴いた記憶が。そして、男の、バットマンの意識のなかで、血と暴力を求める欲求だけが純化していく。
 糞原がリハビリと呼ぶ毎日のトレーニングが、バットマンは待ち遠しい。地下に建設された古代ローマ時代の闘技場のような空間で、バットマンは毎日犬を殺す。もちろん犬は通常の飼犬ではない。戦闘用に交配が進められ、教育された軍事クローン犬「WSO-172」がバットマンのリハビリ・パートナーだった。捨てられた羽毛布団から詰め物が飛び出したような白い毛を持つ、その凶暴な犬の生命をバットマンは奪う。喉笛を狙うWSO-172の頭蓋を拳で粉砕する。腕に噛み付いてきたWSO-172の頚椎をへし折る。闘技場の床が犬の血で汚れ、施設のごみ捨て場には日々、ずたぼろになった犬の死体が積み上げられていった。
「さすがはバットマンです。逸材だ。いまやヤツこそインドラの化身といって過言ではないでしょう」
 糞原は女に治療の経過を報告する。女は施設のオフィスにある黒革張りのソファに身を預けながら、黙ってそれを聞いていた。
「それで?もうバットマンは実戦にも使えるぐらいまで回復しているの?」
 冷たい口調で女は訊ねる。
「もちろんですとも。今のバットマンにはあなたのような特殊戦でも適わないかもしれません……菊地凛子さま、ヘッヘ」
「そう」
 男の下卑た話し方を女は不快に思いながら、女は言った――「明日、バットマンの治療を終わらせるわ」。


 次の日の朝、女は地下室に囚われたバットマンの前に現れる。
「あんた、どこかで会ったことがあるな。誰だ?何の用だ?まだ、リハビリの時間には早いはずだぜ?」
バットマン。もう犬コロと遊ぶのはおしまいよ。その代わり、あなたに仕事をあげる。あんたの大好きな殺しの仕事よ。セルゲイ・オマンコーノフ。この男を殺して欲しいの」
「誰だ、そいつは?」
「あなたは何も知らなくて良いの。ただ、ヤツを殺してくれればそれで良い。どんなことをしても良いわ。とにかく、ヤツの息の根を止めて」
「……そいつはどこにいるんだ?」
鳥取よ、足は用意してあるわ」
 2時間後、黒塗りの特殊装甲車が鳥取に向って時速280キロメートルで疾走している。

闇夜(やみよる)43

 絵里子が十六歳で初めて男を知った次の日の朝、彼女自身が後に「トライブ・コールド・クエスト」と名づける能力が覚醒した。まっ黄色な寂寥の中、目を覚まし、シャワーを浴び、下着を履き、電子レンジで暖めたレトルトのコーンスープに口をつけた瞬間に、舌を火傷する自分自身のビジョンが脳裏に焼きついた。絵里子はシャワーから出ると、下着を履く前にレンジを止め、下着を履き、いい火加減になったところのコーンスープを安心した心持でいきなりゴクゴクと飲んだ。そのことは絵里子にとって、すんなりと受け入れられる事態だった。ジャスト・ファクツ。絵里子は約二分先(実際は、地球が太陽の周りを公転する時間の二十六万二千四百七十三分の一の感覚だが、このときの絵里子にとって知る余地もなかった)まで未来を予知することができるようになっていた。絵里子はハッと思い、額をさわった。が、別にハゲてはいなかった。安心パパ。いや、安心した。
 一週間後、学校帰りのコンビニの前で座り込んでる自分に突っ込んでくるトラックを「トライブ・コールド・クエスト」により予知し、違う道からサササササッと帰った。事故死を回避した。絵里子は漫画や映画で常人を超越した能力を身につけた超人が、世間から疎まれる描写をよく見たことが心にひっかかっていた。そのため、自分の能力を誰にも見せず、誰にも言わず、誰のためにも使わなかった。このときも、絵里子は、自分だけを守った。仲の良かった三人の友達はいつもと同じように、コンビニの駐車場のむき出しのコンクリートの上で、たわいもない話を続けており、突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされて二人が死んだ。絵里子の親友のヒトエはとっさに車を避けたものの、統一朝鮮製の偽物のシャネルのマフラーがトラックのフロントミラーにからめとられ、強く引っ張られたために、キリモミをしながら宙を舞い、コンビニの前面のガラスに向かってはじきとばされ、ガラスの破片で左足を切断し、右の眼窩からほほにかけて突き刺さったガラス片は、ヒトエの右上の犬歯から奥歯にかけてのすべてをこそぎ落としたが、かろうじて一命を取り留めた。興味本位で近くにいこうとしていた絵里子は、つい昨日、弓道部の旧部室のかび臭い畳の上で、自分にまたがり腰を振っていた重岡洋二がトラックとコンビニ内のATMにはさまれて、消化中の昼食のからあげ弁当と大量の黒い血液と腸液とが混じり合った汚物を腹から垂れ流してる様子を見て、その臭いに嘔吐している自分を予知し、思い直してコンビニに近づくのをやめたのだった。絵里子が逆方向に振り向くと、運転手が居眠り運転をしているトラックが見えた。絵里子は「ラッキー。力のおかげで助かった」とそれだけ思った。クスクスと笑いがふき出した。そのとき、絵里子は自分が万能の存在なのだと信ずるに至った。力を使って、思うがままの人生を歩めるはずだと確信した。
 だが、大学で遊びほうけ、上場企業に就職して、絵里子のボキャブラリーで言うところの「勝ち組」を演じるはずだった彼女の人生にあったものは、虚しさと停滞感だけだった。絵里子が入社してすぐに関係を持った総務の小出聡とは、もう七年になった。課長になり、頭も禿げてきた小出が絵里子のために家庭を捨てることは、絶対にないように思われた。それは、予知できなかった。いや、力を使わなくても、わかっていた。それなのに-それなのに私は-。絵里子の心の中では重たく黒いしこりが、耳障りなノイズを奏でていた。
 宇田川町の、いつもの、ブティックホテル。腹はぶよぶよと醜くたるみ、肌は枯れ木のようにしゃがれ、おえっとくる加齢臭がするようになり、豚のような不快ないびきを立てることしか取り柄のない小出が、ふざけて、絵里子の髪を掴み、無理やり喉元まで突っ込もうとするビジョンを予知した絵里子は、下着姿のまま、シャワー室におどりこみ、持っていたボールペンで、小出の睾丸をえぐった。長い付き合いだがこんな高い声が出せたのか、とびっくりするような金切り声を上げて、小出は鏡張りのシャワー室の中でのたうちまわっていた。排水口に向かって透明な水と赤い血がとぐろを巻いて流れ込み、美しいコントラストを描いていた。絵里子は、それを呆然と見つめていた。
 気づくと街を歩いていた。当時の全日本大統領補佐官だった武田鉄矢四世が三十年前に提唱した、超バビロン卍復興計画により、戦前とまったく同じ姿に復元された渋谷のスクランブル交差点に足を踏み入れると、歌が、聞き覚えのない歌が、直接頭の中にひびいた。絵里子の電脳を"SPEED"がハッキングした瞬間だった。フラッシュバックするビジョン。桜の下で微笑む少女。その少女のことは何度も見ていた。絵里子を監視し、絵里子にスタンド能力を与えた蝿型ロボット「マンイーター」が何度も絵里子に見せていた女の子だった。その女の子のことは、遠くの時間であっても見ることができた。だが、それはコントロールできなかった。一年に二度か三度、突然に、女の子のビジョンはやってきた。絵里子はいつしか少女に焦がれてすらいた。絵里子は"SPEED"に同化することで、"SPEED"のネットワークを完全に掌握した。そして、SPPEDは人になった。コマンド。デコイ。突破した。公安と軍部のネットワークから0.2秒で少女の情報を引き出す。西脇綾香。私はこの少女に会わなければならない。そして…Delete Allしろ!「私は、生まれた」。絵里子の意識を覆い尽くすように歌は止まらなかった。断続的な、しかし繰り返すポリリズムが絵里子の電脳をシェイクした。圧倒的な快感が押し寄せていた。行きかう無数の人々の虚像の中、絵里子はオルガズムに達し、力なくしゃがみこんだ。誰も絵里子を見ようとはしなかった。

闇夜(やみよる)42

 暴力は感染する。ひとつの暴力が新たな暴力を呼び起こす。鳥取市郊外で薪割りをしていた田中邦衛は己の身体のなか、意識の底で沈黙していた悪の蘇生を知った。内蔵の内側でうごめきを感じた。俺は…俺は…。田中邦衛は頭を抱え、両の手で顔を被う。赤子のように涙が溢れてくる。こぼれてくる。「これでは…」、田中邦衛は卑屈に笑った。「これではまるで栓の壊れた水道だ」。

 東北戦線から帰還した田中邦衛の心と身体は戦争後遺症で蝕まれていた。戦場から戻った邦衛を待っていたのは腐りきった人々の姿。とりわけ戦争などそ知らぬ顔で鳥取砂丘に突き刺さったテポドンを観光名所にしようと企ててる役人ども。田中邦衛は絶望した。俺はこんなもののために命を掛け戦ってきたのか。首を切られ顔を抉られはらわたの浮く血沼で息絶えていった戦友はこんな奴らのために戦っていたのか、と。そして俺も。田中邦衛の顔に一瞬別の顔が宿る。「とっくに死んでいる」。

 田中邦衛の行動は迅速を極めた。本能と怒りに突き動かされ、疾る。邦衛のダガーナイフの一閃は月夜に煌めいた。邦衛が帰還した翌朝、鳥取県庁の前にはペニスの先端から血抜きをされた歴代観光課課長代理の全裸死体が積み重ねられた。邦衛の怒りはおさまらなかった。矛先はスナック「北の国から」の雇われママ内田有紀を純朴そうな話し振りと冴えない風貌を利用して騙し、犯し、なかば強引に結婚し、そのしなやかで美しい身体に飽きるとあっさり捨てた医師吉岡秀隆に向けられた。

 田中邦衛の首には戦場へ赴く際に内田から貰った十字架がぶら下げられていた。戦場識別タグが十字架の傍らで揺れる。タグに刻まれた「13」の文字。13-それが戦場での彼の名前だった。白河から宇都宮にかけての激闘で田中邦衛の所属する機械化歩兵師団は北の特殊戦に補給を絶たれ血と肉の塊になって壊滅した。屍の山で死体のふりをしてやりすごす田中邦衛は敵の姿を見て、震えた。あれが死神だ。彼は内田有紀の十字架を血に塗れた右手で握り締め、死神の鎌が振り下ろされないよう祈った。神を持たない彼は内田有紀を女神として、祈った。ヘルメットを被った死神の目はじっとりと湿っていた。生き抜いた田中邦衛は宇都宮の傷病者キャンプで内田有紀の死を知り、泣いた。

 田中邦衛ダガーナイフが吉岡の首と胴体を切り離すことはなかった。歴代課長代理殺人犯として指名手配された邦衛の行方を警察と軍が塞いだのだ。田中邦衛は顔と姿を変えて人前から消えた。あれから15年。姿を変えた田中邦衛鳥取の山にこもりログハウスで自給自足の静かな生活を送っていた。夜中に悪寒を覚えた邦衛はログハウスの脇にある牛舎を点検し、それから心を落ち着かせるように薪を割り始めた。月明かりが消えた。邦衛は薪を割る手を休め月のある方向を眺めた。月にはコウモリのマークが踊っていた。田中邦衛のなかでかつての妻あゆみの声が邦衛のなかを反響しながら駆け巡る。「寝ちゃ駄目」「寝ちゃ駄目」「寝ちゃ駄目」二時間後、変態クラブ「コトー」の扉の前にニット帽を被った田中邦衛の姿があった。

 「コトー」は公営住宅の五階の一室に偽装されてあった。扉を開けた邦衛の行方を岩城滉一が遮る。「旦那、ここはあんたのような…」岩城は予め決められていた台詞を終えるまえに心臓を抉られて絶命した。ぼたぼたと邦衛の右腕から粘りけのある液体が床に落ちた。邦衛は一番奥、窓側のソファーに深く腰をかけた男の姿を認め、向かいのソファに腰をかけ声を出す。「久しぶりだな」「誰だいアンタ?」白衣を着た吉岡秀隆の足の間には女がひとりひざまづいて吉岡のペニスを激しく吸っていた。女の看護帽が闇に白く揺れていた。


 「おまえはいったいなんだ?」「僕は闇夜だ」と女を脇にどかせた吉岡秀隆はいう。女のネームプレートには「RUI」と書かれていた。「俺は音楽だ」と田中邦衛。「音楽?」吉岡秀隆の声を無視するようにして田中邦衛は歌い始める。「ルールルルルルルルル。ルールルルルルルルルル」吉岡秀隆の顔に苦悶が浮かぶ。訴える。苦しみを。恐怖を。<<父さん?>>吉岡秀隆はうめきながら、ことばに頼る。<<父さん、助けて>>涙。「ぼくがなにをしたっていうの?」吉岡秀隆はテーブルの上に乗る。それから、吉岡秀隆は逃げるように飛び出す。地上に。公営住宅の五階の高みから。田中邦衛は視る。街路樹に照らされた、白い、歩道に、みるみる吉岡秀隆の赤い血が染みていく。

 殺した−。俺は。殺した−。俺が。息子を。田中邦衛は自問自答した。俺は悪を消した。俺の望みどおりだ。だがなんだ?この身体中を駆け巡る不快は。満たされない心は。「悪とは…暴力とは…」、彼は結論に至る。「俺自身だ」。歩道を歩く田中邦衛の脇をバットモービルが轟音を残して通り過ぎていった。田中邦衛は作業着の胸ポケットから亡妻あゆみの遺した赤いルージュを取り出し、眺めた。雲が流れ満月の青い光が冷たく差してきた。「月夜にダンスを踊る悪魔は俺ひとりだけだ…」そう呟くと、田中はその厚い唇に紅をひいた。

闇夜(やみよる)41

 破壊は常に創造とともにある。弁証法において、否定が常に綜合と手を結んでいるように。東京を飲みつくそうと言う破壊の焔が7日間燃え続ける一方で、北日本の中心である宮城県仙台市では新しい巨大建築物の建造が進められていた。20世紀の後半に北朝鮮で建設が始められつつも諸事情から建設作業が中断し、結局、完成の日の目を見ずに小型核弾頭によってガレキの山と成り果てた柳京ホテルの意匠を引き継いだ、その建築は新国家に相応しいモニュメントとなるはずだった。しかし北日本独立紛争の天王山と呼ばれた火の7日間が終わったこの時点では、その高さ330メートルにもなる超々高層ビルは地下施設を組み入れるための、巨大な縦穴に過ぎない。かつて「東北の歌舞伎町」と呼ばれた仙台市国分町の歓楽街跡地に、その穴は存在していた。
「私はね、『東北の歌舞伎町』という呼び名。これが昔から嫌いでね。どうして歌舞伎町が『関東の国分町』じゃないんだ?といつも思ったものですよ」
 宮城県知事、上野俊哉は暗く、地の底まで続きそうな穴をそこからそれほど遠くないビルの窓から眺めていた。彼がいる室内には他の6人の県知事たちも揃っている。自作自演による知事誘拐事件、火の7日間、そして……次なる手をどうするか。これを話し合おうとこの日、仙台市に集まっていたのだ。彼らは割りに古い人間だった。この頃すでに「会談」といえばオンラインで行うものという常識があったにも関わらず、彼らはこうして実際に触れられる距離で話し合うのを好んでいた。
「それが今や逆転したわけですな。いや、これも正確ではありませんか。なにせ、もはや『歌舞伎町』などという街は世界中のどこを探してもないのですから。あの北日本独立記念ビルが完成すれば、歓楽街の代名詞は国分町のものになるでしょう。いやあ、今日はしかしめでたい日だ!これでもう北日本の勝利は決まったようなものでしょう!」
 上野は眼鏡の奥にある眼を喜びの光で爛々と輝かしながら続けた。
「しかし、これからが忙しい」
 そこに北海道知事、杉村太蔵が言葉を挟む。
「まず勝利宣言をするでしょう。これは独立宣言以上に華々しいセレモニーにしなくてはいけません。それから焦土となった東京の土地をどうするか、という問題もある」
 杉村の言葉に上野は祝いの席にいるような気分でいたのに水を差されたような気もしたが、不快な気持ちを顔には出さず、逆にどこからどうみてもこの人は為政者だという様子で頷いた。それを確認した杉村は、少し不安になった。彼は7人のなかで最も若輩者である自意識のために、これまで控えめに行こうと心に決めていた。この瞬間にも彼は、上野が気分を害したのではないかと考え、また出すぎた真似をしてしまった……と後悔している。なんで俺は……。杉村の頭のなかで自分の行動を苛む言葉が螺旋運動を始めていた。俺の馬鹿……!俺の呪われた犬……!俺なんか焼かれてしまえば良い……!
「東京についてですが、私にひとつ考えがある」
 杉村の異変に気がついて助け舟を出したのは、秋田県知事、加藤鷹だった。加藤は杉村にひとつウインクをしながら話し始めた。
「我々は独立のための武力行使で、世界中からさまざまな人間を集めました。アフリカや東南アジアや南米の傭兵たちはもちろん、なかには素性がはっきりしない犯罪者のような輩も含め、使えそうな人間はみんな独立のための闘いに参加させました。我々の勝利は彼らのおかげと言っても良い。しかし、戦後に彼らをどうするか、これは今後問題になるでしょう。しかし、あのような荒くれたちを、元々の北日本の領土に向かえ入れられるか、と言えば大いに考えモノです。折角の勝ち取った土地を彼らに汚されてはもったいない。そこでどうでしょう。いっそのこと、彼らにあの焦土、変わり果てた東京の土地を与えてしまうと言うのは。どうせ今や硝煙と肉の焼けた匂いしかしないガレキの山だ。こちらとしてももらってくれるなら嬉しいくらいじゃありませんか」
 加藤はここぞとばかりに美声を響かせた。まるでミラノの歌劇場でオセローを演じるテノール歌手のように豊かな彼の声色に、杉村は自分の脇からとめどなく流れる緊張の冷や汗を自然と止めてくれるような感激を覚えた。
「荒くれどもは皆あの廃墟と化した街に囲い込む、というわけですか」
 そこに岩手県知事、伊藤政則が割って入った。
「私は、加藤さんの意見に途中までは同意します……しかし、少し詰めが甘いですね。私ならこうする。あの廃墟へ荒くれどもを囲い込む。しかし、我々は徹底的に彼らを管理します。そして、廃墟からまた新たに街を作らせるのです。力自慢の輩ばかりですから、きっと良い労働力になってくれるでしょう。何もない土地ですから、どんな建物を作ったって良い。そこには労働の場が生まれる……するとどうでしょう……経済が生まれる!ねぇ、明暗でしょう!」
 伊藤の気分は自分の考えを話すうちに昂揚していた。自分の意見に酔っていたのだ。それは、東北一の経済通知事としての実力を久々に発揮できる機会がまわってきたせいでもあった。話に熱が入りすぎて、彼がかけていた遠近両方メガネのレンズが曇ったほどで、その勢いは止まらなかった。一体何分間続けるのだろうか、伊藤の様子に青森県知事、田中義剛は呆れていた。
「伊藤さん、もうそろそろ良いじゃないですか。東京の話はまた考えましょうよ」
 そこで田中はため息をつきながら、伊藤を抑えにかかった。しかし、伊藤は熱くなりすぎていた。
「人が一生懸命話しているのに、なんだ、その態度は!」
 伊藤が激昂した瞬間に、知事たちがいた室内の空気はビリビリと震えた。近くに雷が落ちたかのような衝撃に、田中は一瞬たじろいだが、青森県全域の暴走族を取り締まる交通課の鬼巡査から立身出世で、知事の座をもぎ取った彼の血は黙ってはいなかった。音を立てて勢いよく席を立ったかと思うと、伊藤の方に歩み寄り、胸倉に掴みかかる。
「テメェ、こっちが下手に出たと思って調子にのってんじゃねぇぞ、オラ、あ?」
 田中は毎晩国道4号線で改造バイクの集団を待ち構え、“相手”が来た瞬間に道を飛び出し、前輪を鉄パイプで強打し、横転させ、そして補導し続けた……あの頃に戻っていた。彼の意識にはもはや自分が北日本連邦を司る知事の一人である自覚など残っていなかった。あるのは年甲斐のない闘争心と不快感だけだった。
 しかし、胸倉をつかまれている伊藤は田中の恫喝にひるむところをみせない。それどころか驚くべき方法で伊藤は田中に反応した。自分の胸倉を掴んだままの田中の腕に手を添えたかと思うと、次の瞬間に伊藤の足は宙を舞い、そして田中の肩と首を捉えていた。伊藤の動きのあまりの速さに、その場にいた誰もが何が起こったか分からなかった。伊藤の2本の足が大蛇のように田中の腕と肩と首に絡み付き、伊藤の胴体は太い木の幹にしがみつくようにして宙に浮いていた。それは完璧な飛びつき三角締めだった。それを受けた田中の顔色は見る見るうちに朱に染まった。
「はやく、降参したほうが良いですよ。この技は一度決まったら絶対に外れない。無理に外そうとすれば、腕がポッキリと折れてしまいます」
 伊藤がさきほどの激昂とは打って変わって、優しく諭すように自分に話しかけるのを田中は薄れゆく意識のなかで聞く。自分の身に何が起こったか、彼はまだ把握できず、息苦しさのなか、死に掛けた蝦蟇のように醜い声を漏らした。
 伊藤は自分の正体を誰にも明かしていなかった。彼が岩手県に本拠地をおくネオみちのくプロレスの社長兼現役レスラーであったことを。ザ・レジェンド・サスケ。それが彼のリング・ネームだった。メキシコ仕込みの華麗なる空中殺法とアマ・レスリングで培われた高いグラウンド能力。ザ・レジェンド・サスケが天と地を治める偉大なる格闘家であることは世界的にも知られていたにも関わらず、伊藤の正体がザ・レジェンド・サスケだと露呈しなかったのは、彼が覆面レスラーだったからなのだが、これには2重の意味がある。1つは文字通り、覆面レスラーだったから伊藤だと分からなかった、ということ。2つ目は、彼が負けを知らないレスラーだったからだ――彼の無敗伝説はメキシコ時代から続き、出場したマスク剥ぎマッチで一度として素顔を観客にさらしたことはない。これはルリャリブレ史上においてもザ・レジェンド・サスケのほかにアセイテ・フェゲテウとリャ・コステリアーノの2人しかいない快挙である。
 この鮮やかな飛びつき三角締めが決まっても他の知事たちは、伊藤がザ・レジェンド・サスケであることに気がつかなかった。彼らはそれほどまでに動転していたのだ。周囲にいた他の知事たちが2人を止めようとしたのは、少々遅かった。恐れを感じながら加藤が伊藤の肩に手をかけた瞬間、田中は口角に白い泡を浮かべながらがっくりと地に膝を落として意識を失う。漸く伊藤が技をといたのはそれからだった――「大丈夫です。死にはしません。5分も過ぎればムックリと起き上がりますよ」。伊藤は言った。
 しかし、訪れたのは静寂。1人の男が室内に倒れているのを皆呆然と眺めながら、ただ沈黙を守り続けていた。そこには恐ろしく気まずい空気が流れていた。
「私たちは何をしているんでしょうか……」
 しばらくして福島県知事、小林研一郎が言った。悲痛で、消え入りそうな声だった。祭が終わったあとに、ふと冷静になりひどく悲しい気持ちになった子供のような不安が彼の声には含まれていた。
「今ここで起こったことだけの話じゃない。我々は一人の得体の知れないロシア人の案で戦争を起こし、様々な物を破壊し、そして数多の人間を殺した。直接的に何もしてはいない。しかし、決定したのは我々です。我々は何がやりたくて、こんなことをしでかしたんでしょうか。私たちはこんな戦争を本当に望んでいたんでしょうか……なんだか、恐ろしくて仕方がないんです。これからどうしたら良いんでしょうか……」
 小林の言葉によって、室内にはさらに重苦しい空気が吹き込んだ。最初に一番上機嫌でいた上野の顔も苦々しく歪んだものになり、喜びの廃墟のようなものしか残っていない。ほかの知事たちも皆同じような気持ちでいた(いまだ床に突っ伏したままの田中を残してだが)。
「おやおや、皆さん、いけませんね……急に日和ったんですか」
 知事たち以外の者が発した声によって、その暗い沈黙は破られた。それは知事たちには聞き覚えのある声だった――それはユーリ・テミルカーノフコマンドサンボの使い手で、セルゲイ・オマンコーノフの通訳の男のものだった。知事たちが振り返るとそこには声の主が、その雇い主と一緒に部屋の入り口に立っている。彼らが巨躯のテミルカーノフと小役人のようなオマンコーノフが並ぶ姿を通信ディスプレイ越しではなく見るのは、戦争が始まる前の会談以来だった。
「今更後悔しても遅いんですよ、時間は不可逆なものですから。あなた方は2度と元には戻れないんですよ」
 オマンコーノフがボソボソと話すロシア語がテミルカーノフによって日本語に翻訳されるのを知事たちは聞いている。その翻訳スピードはほとんど同時通訳状態で、テミルカーノフの日本語はオマンコーノフのロシア語の影のように響く。それは聞き手を困惑させる。翻訳されているのは日本語なのかロシア語なのか、知事たちは誤認しそうになる。
 だが、テミルカーノフはその雇い主のようには笑わない。知事たちは巨躯の影で、オマンコーノフが忍び笑いをするのを聞いた。
「一旦進みだした時間はとことん進ませるしかないのです」
 碧眼の2人組が徐々に近づいてくるのに対して、知事たちは無意識に後ずさりを始めている。彼らは足元に恐怖を感じている。この冷たい感覚に、伊藤はいまだ意識を失ったままでいる田中を羨ましくさえ思うほどだった。

闇夜(やみよる)40

 犬川隼人は、女を物色している。それは毎日続いた。男の、日課だった。男は東京メトロ渋谷駅銀座線ホームと男子トイレを清掃する仕事をしている。自分を恥じている。本当の俺ではない、と思う。本当の俺を発揮せねば、と思う。本当の俺は世界を動かしうる存在なのだ、と思っている。40を過ぎたころ、男は、あきらめる。認める。自分は敗北者なのだと、知る。知った、と思う。犬川の血筋に、夢(それがなんなのかは犬川自身にもわからないのだが)を託さねばならぬ、と至る。俺にふさわしい、犬川の名にふさわしい女を捜さねばならぬ、と、男は、至る。
 それから犬川の女探しがはじまる。犬川は東急田園都市線を使って出勤している。仕事は7時に始まり、16時に終わる。仕事が終わるとスターバックスで18時まで時間を潰し、電車に乗る。
 冬のある日、犬川は「これだ!」と自身が感ずる女に出くわす。年のこうは三十くらいであろうか、強いまなざしをしていた。女は化粧をせず、凛とした雰囲気を漂わせて、すでに真っ暗な外の景色を見据えていた。伸ばしっぱなしの髪と、うっすらひげが生えた口元と、フェイクファーをつけた真っ黒のダウンジャケットと、ダメージジーンズと、大きな鷲鼻に男は、確信する。
「おい」
 と声をかけると、梶ヶ谷にある家賃8万の女のマンションで四度交わった。表札には今井と書かれてあった。
「くそ、くそ、くそ、くそ、俺の、未来は、俺の未来が、未来が、発射する!!!!」
 と言って女の女陰に四度射精した。女の妊娠がわかると、最初の十ヶ月は手当てだと言って毎月三万渡していたが、その後は、面倒になり、やめた。
 犬川はその女との関係を運命だと信じていたが、実際は、怪しい。犬川は週に一度のペースでいろんな「運命の女」たちに声をかけていたが、毎回、その行為(要するにただのナンパだ)は失敗していたからだ。そればかりか、犬川は、声をかけた女に断られると、家におしかけたり、道端でその女を強姦することすらあった。犬川はたった一度のナンパの成功のあと、三年たって、婦女暴行で逮捕され週刊誌を、ほんのわずかな期間にぎわかすことになり、収容された刑務所で、労働中に怪我をして破傷風に感染し、あっけなく死ぬ。微笑を浮かべたまま死ぬ。確信を抱き続け死ぬ。
 ただ、ともかく、鷲鼻の女は、黒いダウンジャケットの女は、今井里子は、犬川隼人を受け入れた。そして子を産んだ。一人で育てた。名を今井絵理子と言う。絵里子は母が犬川を受け入れたのと同じ二十九の年に、突然、運命を知る。奇しくも渋谷の、顔も知らない、存在すら意識したことのない、父親が毎日時間を潰しながら眺めた渋谷の交差点で自らの運命を知り、大声で叫ぶ。
「あーちゃん!!!!!!」