闇夜(やみよる)43

 絵里子が十六歳で初めて男を知った次の日の朝、彼女自身が後に「トライブ・コールド・クエスト」と名づける能力が覚醒した。まっ黄色な寂寥の中、目を覚まし、シャワーを浴び、下着を履き、電子レンジで暖めたレトルトのコーンスープに口をつけた瞬間に、舌を火傷する自分自身のビジョンが脳裏に焼きついた。絵里子はシャワーから出ると、下着を履く前にレンジを止め、下着を履き、いい火加減になったところのコーンスープを安心した心持でいきなりゴクゴクと飲んだ。そのことは絵里子にとって、すんなりと受け入れられる事態だった。ジャスト・ファクツ。絵里子は約二分先(実際は、地球が太陽の周りを公転する時間の二十六万二千四百七十三分の一の感覚だが、このときの絵里子にとって知る余地もなかった)まで未来を予知することができるようになっていた。絵里子はハッと思い、額をさわった。が、別にハゲてはいなかった。安心パパ。いや、安心した。
 一週間後、学校帰りのコンビニの前で座り込んでる自分に突っ込んでくるトラックを「トライブ・コールド・クエスト」により予知し、違う道からサササササッと帰った。事故死を回避した。絵里子は漫画や映画で常人を超越した能力を身につけた超人が、世間から疎まれる描写をよく見たことが心にひっかかっていた。そのため、自分の能力を誰にも見せず、誰にも言わず、誰のためにも使わなかった。このときも、絵里子は、自分だけを守った。仲の良かった三人の友達はいつもと同じように、コンビニの駐車場のむき出しのコンクリートの上で、たわいもない話を続けており、突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされて二人が死んだ。絵里子の親友のヒトエはとっさに車を避けたものの、統一朝鮮製の偽物のシャネルのマフラーがトラックのフロントミラーにからめとられ、強く引っ張られたために、キリモミをしながら宙を舞い、コンビニの前面のガラスに向かってはじきとばされ、ガラスの破片で左足を切断し、右の眼窩からほほにかけて突き刺さったガラス片は、ヒトエの右上の犬歯から奥歯にかけてのすべてをこそぎ落としたが、かろうじて一命を取り留めた。興味本位で近くにいこうとしていた絵里子は、つい昨日、弓道部の旧部室のかび臭い畳の上で、自分にまたがり腰を振っていた重岡洋二がトラックとコンビニ内のATMにはさまれて、消化中の昼食のからあげ弁当と大量の黒い血液と腸液とが混じり合った汚物を腹から垂れ流してる様子を見て、その臭いに嘔吐している自分を予知し、思い直してコンビニに近づくのをやめたのだった。絵里子が逆方向に振り向くと、運転手が居眠り運転をしているトラックが見えた。絵里子は「ラッキー。力のおかげで助かった」とそれだけ思った。クスクスと笑いがふき出した。そのとき、絵里子は自分が万能の存在なのだと信ずるに至った。力を使って、思うがままの人生を歩めるはずだと確信した。
 だが、大学で遊びほうけ、上場企業に就職して、絵里子のボキャブラリーで言うところの「勝ち組」を演じるはずだった彼女の人生にあったものは、虚しさと停滞感だけだった。絵里子が入社してすぐに関係を持った総務の小出聡とは、もう七年になった。課長になり、頭も禿げてきた小出が絵里子のために家庭を捨てることは、絶対にないように思われた。それは、予知できなかった。いや、力を使わなくても、わかっていた。それなのに-それなのに私は-。絵里子の心の中では重たく黒いしこりが、耳障りなノイズを奏でていた。
 宇田川町の、いつもの、ブティックホテル。腹はぶよぶよと醜くたるみ、肌は枯れ木のようにしゃがれ、おえっとくる加齢臭がするようになり、豚のような不快ないびきを立てることしか取り柄のない小出が、ふざけて、絵里子の髪を掴み、無理やり喉元まで突っ込もうとするビジョンを予知した絵里子は、下着姿のまま、シャワー室におどりこみ、持っていたボールペンで、小出の睾丸をえぐった。長い付き合いだがこんな高い声が出せたのか、とびっくりするような金切り声を上げて、小出は鏡張りのシャワー室の中でのたうちまわっていた。排水口に向かって透明な水と赤い血がとぐろを巻いて流れ込み、美しいコントラストを描いていた。絵里子は、それを呆然と見つめていた。
 気づくと街を歩いていた。当時の全日本大統領補佐官だった武田鉄矢四世が三十年前に提唱した、超バビロン卍復興計画により、戦前とまったく同じ姿に復元された渋谷のスクランブル交差点に足を踏み入れると、歌が、聞き覚えのない歌が、直接頭の中にひびいた。絵里子の電脳を"SPEED"がハッキングした瞬間だった。フラッシュバックするビジョン。桜の下で微笑む少女。その少女のことは何度も見ていた。絵里子を監視し、絵里子にスタンド能力を与えた蝿型ロボット「マンイーター」が何度も絵里子に見せていた女の子だった。その女の子のことは、遠くの時間であっても見ることができた。だが、それはコントロールできなかった。一年に二度か三度、突然に、女の子のビジョンはやってきた。絵里子はいつしか少女に焦がれてすらいた。絵里子は"SPEED"に同化することで、"SPEED"のネットワークを完全に掌握した。そして、SPPEDは人になった。コマンド。デコイ。突破した。公安と軍部のネットワークから0.2秒で少女の情報を引き出す。西脇綾香。私はこの少女に会わなければならない。そして…Delete Allしろ!「私は、生まれた」。絵里子の意識を覆い尽くすように歌は止まらなかった。断続的な、しかし繰り返すポリリズムが絵里子の電脳をシェイクした。圧倒的な快感が押し寄せていた。行きかう無数の人々の虚像の中、絵里子はオルガズムに達し、力なくしゃがみこんだ。誰も絵里子を見ようとはしなかった。