闇夜(やみよる)42

 暴力は感染する。ひとつの暴力が新たな暴力を呼び起こす。鳥取市郊外で薪割りをしていた田中邦衛は己の身体のなか、意識の底で沈黙していた悪の蘇生を知った。内蔵の内側でうごめきを感じた。俺は…俺は…。田中邦衛は頭を抱え、両の手で顔を被う。赤子のように涙が溢れてくる。こぼれてくる。「これでは…」、田中邦衛は卑屈に笑った。「これではまるで栓の壊れた水道だ」。

 東北戦線から帰還した田中邦衛の心と身体は戦争後遺症で蝕まれていた。戦場から戻った邦衛を待っていたのは腐りきった人々の姿。とりわけ戦争などそ知らぬ顔で鳥取砂丘に突き刺さったテポドンを観光名所にしようと企ててる役人ども。田中邦衛は絶望した。俺はこんなもののために命を掛け戦ってきたのか。首を切られ顔を抉られはらわたの浮く血沼で息絶えていった戦友はこんな奴らのために戦っていたのか、と。そして俺も。田中邦衛の顔に一瞬別の顔が宿る。「とっくに死んでいる」。

 田中邦衛の行動は迅速を極めた。本能と怒りに突き動かされ、疾る。邦衛のダガーナイフの一閃は月夜に煌めいた。邦衛が帰還した翌朝、鳥取県庁の前にはペニスの先端から血抜きをされた歴代観光課課長代理の全裸死体が積み重ねられた。邦衛の怒りはおさまらなかった。矛先はスナック「北の国から」の雇われママ内田有紀を純朴そうな話し振りと冴えない風貌を利用して騙し、犯し、なかば強引に結婚し、そのしなやかで美しい身体に飽きるとあっさり捨てた医師吉岡秀隆に向けられた。

 田中邦衛の首には戦場へ赴く際に内田から貰った十字架がぶら下げられていた。戦場識別タグが十字架の傍らで揺れる。タグに刻まれた「13」の文字。13-それが戦場での彼の名前だった。白河から宇都宮にかけての激闘で田中邦衛の所属する機械化歩兵師団は北の特殊戦に補給を絶たれ血と肉の塊になって壊滅した。屍の山で死体のふりをしてやりすごす田中邦衛は敵の姿を見て、震えた。あれが死神だ。彼は内田有紀の十字架を血に塗れた右手で握り締め、死神の鎌が振り下ろされないよう祈った。神を持たない彼は内田有紀を女神として、祈った。ヘルメットを被った死神の目はじっとりと湿っていた。生き抜いた田中邦衛は宇都宮の傷病者キャンプで内田有紀の死を知り、泣いた。

 田中邦衛ダガーナイフが吉岡の首と胴体を切り離すことはなかった。歴代課長代理殺人犯として指名手配された邦衛の行方を警察と軍が塞いだのだ。田中邦衛は顔と姿を変えて人前から消えた。あれから15年。姿を変えた田中邦衛鳥取の山にこもりログハウスで自給自足の静かな生活を送っていた。夜中に悪寒を覚えた邦衛はログハウスの脇にある牛舎を点検し、それから心を落ち着かせるように薪を割り始めた。月明かりが消えた。邦衛は薪を割る手を休め月のある方向を眺めた。月にはコウモリのマークが踊っていた。田中邦衛のなかでかつての妻あゆみの声が邦衛のなかを反響しながら駆け巡る。「寝ちゃ駄目」「寝ちゃ駄目」「寝ちゃ駄目」二時間後、変態クラブ「コトー」の扉の前にニット帽を被った田中邦衛の姿があった。

 「コトー」は公営住宅の五階の一室に偽装されてあった。扉を開けた邦衛の行方を岩城滉一が遮る。「旦那、ここはあんたのような…」岩城は予め決められていた台詞を終えるまえに心臓を抉られて絶命した。ぼたぼたと邦衛の右腕から粘りけのある液体が床に落ちた。邦衛は一番奥、窓側のソファーに深く腰をかけた男の姿を認め、向かいのソファに腰をかけ声を出す。「久しぶりだな」「誰だいアンタ?」白衣を着た吉岡秀隆の足の間には女がひとりひざまづいて吉岡のペニスを激しく吸っていた。女の看護帽が闇に白く揺れていた。


 「おまえはいったいなんだ?」「僕は闇夜だ」と女を脇にどかせた吉岡秀隆はいう。女のネームプレートには「RUI」と書かれていた。「俺は音楽だ」と田中邦衛。「音楽?」吉岡秀隆の声を無視するようにして田中邦衛は歌い始める。「ルールルルルルルルル。ルールルルルルルルルル」吉岡秀隆の顔に苦悶が浮かぶ。訴える。苦しみを。恐怖を。<<父さん?>>吉岡秀隆はうめきながら、ことばに頼る。<<父さん、助けて>>涙。「ぼくがなにをしたっていうの?」吉岡秀隆はテーブルの上に乗る。それから、吉岡秀隆は逃げるように飛び出す。地上に。公営住宅の五階の高みから。田中邦衛は視る。街路樹に照らされた、白い、歩道に、みるみる吉岡秀隆の赤い血が染みていく。

 殺した−。俺は。殺した−。俺が。息子を。田中邦衛は自問自答した。俺は悪を消した。俺の望みどおりだ。だがなんだ?この身体中を駆け巡る不快は。満たされない心は。「悪とは…暴力とは…」、彼は結論に至る。「俺自身だ」。歩道を歩く田中邦衛の脇をバットモービルが轟音を残して通り過ぎていった。田中邦衛は作業着の胸ポケットから亡妻あゆみの遺した赤いルージュを取り出し、眺めた。雲が流れ満月の青い光が冷たく差してきた。「月夜にダンスを踊る悪魔は俺ひとりだけだ…」そう呟くと、田中はその厚い唇に紅をひいた。