闇夜(やみよる)32

 自作自演の知事誘拐事件に対する北日本の暴力による抗議行動が始まった途端、政府の要人たちは次々と東京を離れていった。総理大臣、木村拓哉も例外ではない。というか私の記憶によれば、あのとき一番最初に首都を離れたのは、彼だったと思う。私たちはあのとき、この国が20世紀のなかばに味わった屈辱の再現をテレビ画面の前で待っていた。休戦――といえば聞こえは良いが、それは明確に敗戦だった。しかし、それでも私たちは構わなかった。疲労しきっていたのだ。大人だけではない。私の受け持っていた生徒たち――戦争が始まる前は夏の青草のように溌剌とした表情を見せてくれた彼らの表情にさえ、絶望的な疲労がおよんでいたのだから。みんな悪霊に憑かれたみたいだった。それこそ、私たちは屈辱を待ち望んでいた。函館沖のメタンハイドレート北日本の独立?そんなものはどうだって良いじゃないか。そんなことよりも私たちに必要だったのは休息だった。死んだ自衛隊員と米軍兵士の数が朝昼晩速報に流れることの無いような、落ち着いた日常を取り戻したかった――しかし、やってきたのは深い深い闇だった。日本の総理大臣が東京の、永田町にあった首相官邸から最後にテレビを通じて伝えた非常事態宣言と避難命令の3時間後に、埼玉県の上空で北日本のどこかから飛ばされたロケットが破裂する。それが積んでいたのはあの美嚢・府鋤粒子だと知ったのは、鳥取に臨時政府が出来て5年も経ってからだ。当時の私たちに何が起きたのかはちっとも分からなかった。しかし、それからしばらくして関東全域あらゆる電子機器は麻痺した。いかに私たちの生活がコンピューターによって管理されていたのか、あれほど身にしみた日々はない。いよいよ、東京も危ないんだ。職員室で誰かが言った――避難命令?一体どこに逃げれば良いんだ?第一移動手段にだって困っていた。慢性的な電力不足のおかげで日に6時間も運行されない電車、燃料が市場に出回っていないせいで鉄の塊でしかない自動車。結局逃げられたのは一部の金持ちと政治家の大部分と……勘の良い動物たちだけだ。逃げられなかった大部分の私たちは洪水のように押し寄せてくる暴力にただ身をまかせるしかなかった。たった7日間で100年近くの間に築かれ、未来都市とまで呼ばれた街が瓦礫の山になってしまった――正確に言えば、北日本からやってきた兵士が都内に侵入したのは7日間のちょうど真ん中、4日目の夜だった。私はそのとき、北の空が紅く染まっているのを見た。終わりの始まり?妻はたしかそう言った。ああ。私はうなづいた。火の勢いは加速度的に強まっているようだった。空の闇に禍々しい紅が混じっていくのを私と妻はしばらくの間眺めていた。逃げなきゃ。外に出るとプラスティックが焦げたような嫌な臭いがあたりに漂っているのを感じた。でもどこに?もはや誰もが混乱を通り越して本当の意味で我を忘れていたのだと思う。何かが大きなものが崩れていく轟音や獣声のような叫び声が徐々に近づいてくる最中を、私たちは彷徨っていた。色々な人がいた。舞踏会にでも出向くような黒いビロードのドレスを着た老婆がふらふらと歩いていた――かと思えばそれとは対照的に下着すら身につけていない若者が走り回っていた。気がついたときには、手をつないでいたはずの妻とはぐれてしまっていた。陽子?自分がどこを歩いているかもさっぱり分からなかった。しかし、暴力の音がすぐ間近に迫っているのははっきりと分かった。底なし沼のような深い闇は何日も続いた。ずぶずぶと私たちはそれに足を絡め取られていったのだ。何日かめ私は、頭上から何かが落ちてくる音を聞いた。瓦礫のなかで一度目が覚めたとき、私は右腕を潰されてしまっていた。不思議と痛みは無かった。死ぬのだろう、私はそう直感し、再び目を閉じた。闇。次に私が光を見たとき、私はベッドのうえにいた。もう何年も光を見ていないような気分で、私は自分のいる状況を確認しようとした。潰れた右腕は二の腕のまんなかから綺麗に切除され、包帯が巻かれていた。残された左腕には点滴がつながれていた。生きて……いる?その実感はまったく湧いてこなかった。どうやら病院に収容されているようだった。しばらくするとやけに大人びた言葉を使う少女が部屋に入ってきた――天使にも、看護婦にも、北日本の兵士にも思えなかった。彼女は言った。どうやら生きてたみたいね。それが幸福かはわからないけど。あとで見てみるといいわ、この廃墟を。かつて極東のメガロポリスと呼ばれた街が見る影もないわ。それはひどく冷たい口調だった。私は君に助けられたのか?正体の分からない少女に訊ねた。そうよ。なぜ?君は北日本の人間じゃないのか?任務だから。任務?そう。私の上司が言ったのよ。この惨禍のなかで生き残る人間は、歴史に選ばれた人間だ。だから、生かせ。ただし、歴史は間違えることもある。生き残った人間がすべてなにかを成し遂げたりするわけではない。だが、生かせ。それが命令だ――彼女は瞬きひとつせず、機械のように説明した。よく理解できない。生き残ったことが良かったのかも、悪かったのかも。私は言った。当然よ。そうだ、君の名は?一応、命の恩人なんだろうから。


 菊地凛子


 その名前を名乗る彼女によく似た少女とその後に私は何度も出会った。