闇夜(やみよる)32

 自作自演の知事誘拐事件に対する北日本の暴力による抗議行動が始まった途端、政府の要人たちは次々と東京を離れていった。総理大臣、木村拓哉も例外ではない。というか私の記憶によれば、あのとき一番最初に首都を離れたのは、彼だったと思う。私たちはあのとき、この国が20世紀のなかばに味わった屈辱の再現をテレビ画面の前で待っていた。休戦――といえば聞こえは良いが、それは明確に敗戦だった。しかし、それでも私たちは構わなかった。疲労しきっていたのだ。大人だけではない。私の受け持っていた生徒たち――戦争が始まる前は夏の青草のように溌剌とした表情を見せてくれた彼らの表情にさえ、絶望的な疲労がおよんでいたのだから。みんな悪霊に憑かれたみたいだった。それこそ、私たちは屈辱を待ち望んでいた。函館沖のメタンハイドレート北日本の独立?そんなものはどうだって良いじゃないか。そんなことよりも私たちに必要だったのは休息だった。死んだ自衛隊員と米軍兵士の数が朝昼晩速報に流れることの無いような、落ち着いた日常を取り戻したかった――しかし、やってきたのは深い深い闇だった。日本の総理大臣が東京の、永田町にあった首相官邸から最後にテレビを通じて伝えた非常事態宣言と避難命令の3時間後に、埼玉県の上空で北日本のどこかから飛ばされたロケットが破裂する。それが積んでいたのはあの美嚢・府鋤粒子だと知ったのは、鳥取に臨時政府が出来て5年も経ってからだ。当時の私たちに何が起きたのかはちっとも分からなかった。しかし、それからしばらくして関東全域あらゆる電子機器は麻痺した。いかに私たちの生活がコンピューターによって管理されていたのか、あれほど身にしみた日々はない。いよいよ、東京も危ないんだ。職員室で誰かが言った――避難命令?一体どこに逃げれば良いんだ?第一移動手段にだって困っていた。慢性的な電力不足のおかげで日に6時間も運行されない電車、燃料が市場に出回っていないせいで鉄の塊でしかない自動車。結局逃げられたのは一部の金持ちと政治家の大部分と……勘の良い動物たちだけだ。逃げられなかった大部分の私たちは洪水のように押し寄せてくる暴力にただ身をまかせるしかなかった。たった7日間で100年近くの間に築かれ、未来都市とまで呼ばれた街が瓦礫の山になってしまった――正確に言えば、北日本からやってきた兵士が都内に侵入したのは7日間のちょうど真ん中、4日目の夜だった。私はそのとき、北の空が紅く染まっているのを見た。終わりの始まり?妻はたしかそう言った。ああ。私はうなづいた。火の勢いは加速度的に強まっているようだった。空の闇に禍々しい紅が混じっていくのを私と妻はしばらくの間眺めていた。逃げなきゃ。外に出るとプラスティックが焦げたような嫌な臭いがあたりに漂っているのを感じた。でもどこに?もはや誰もが混乱を通り越して本当の意味で我を忘れていたのだと思う。何かが大きなものが崩れていく轟音や獣声のような叫び声が徐々に近づいてくる最中を、私たちは彷徨っていた。色々な人がいた。舞踏会にでも出向くような黒いビロードのドレスを着た老婆がふらふらと歩いていた――かと思えばそれとは対照的に下着すら身につけていない若者が走り回っていた。気がついたときには、手をつないでいたはずの妻とはぐれてしまっていた。陽子?自分がどこを歩いているかもさっぱり分からなかった。しかし、暴力の音がすぐ間近に迫っているのははっきりと分かった。底なし沼のような深い闇は何日も続いた。ずぶずぶと私たちはそれに足を絡め取られていったのだ。何日かめ私は、頭上から何かが落ちてくる音を聞いた。瓦礫のなかで一度目が覚めたとき、私は右腕を潰されてしまっていた。不思議と痛みは無かった。死ぬのだろう、私はそう直感し、再び目を閉じた。闇。次に私が光を見たとき、私はベッドのうえにいた。もう何年も光を見ていないような気分で、私は自分のいる状況を確認しようとした。潰れた右腕は二の腕のまんなかから綺麗に切除され、包帯が巻かれていた。残された左腕には点滴がつながれていた。生きて……いる?その実感はまったく湧いてこなかった。どうやら病院に収容されているようだった。しばらくするとやけに大人びた言葉を使う少女が部屋に入ってきた――天使にも、看護婦にも、北日本の兵士にも思えなかった。彼女は言った。どうやら生きてたみたいね。それが幸福かはわからないけど。あとで見てみるといいわ、この廃墟を。かつて極東のメガロポリスと呼ばれた街が見る影もないわ。それはひどく冷たい口調だった。私は君に助けられたのか?正体の分からない少女に訊ねた。そうよ。なぜ?君は北日本の人間じゃないのか?任務だから。任務?そう。私の上司が言ったのよ。この惨禍のなかで生き残る人間は、歴史に選ばれた人間だ。だから、生かせ。ただし、歴史は間違えることもある。生き残った人間がすべてなにかを成し遂げたりするわけではない。だが、生かせ。それが命令だ――彼女は瞬きひとつせず、機械のように説明した。よく理解できない。生き残ったことが良かったのかも、悪かったのかも。私は言った。当然よ。そうだ、君の名は?一応、命の恩人なんだろうから。


 菊地凛子


 その名前を名乗る彼女によく似た少女とその後に私は何度も出会った。

闇夜(やみよる)31

 オレはツッパリヨシヅミ、つっぱってる。本名は斉藤智文なんだけど、みんながヨシヅミって呼ぶのは石原良純ってのに顔がそっくりだかららしい。オレはそのヨシヅミは知らないが、ヨシヅミって呼ばれるのは嫌いじゃなかった。だからヨシヅミだと名乗る。名はいつかその人の本質になっていく。今じゃオレはヨシヅミだからオレなんだと思う。
 突然だが少しヘビーな話をすると、オレのマブダチでバンドのベースのジョニーの彼女のテルミが始皇帝の連中に姦わされたのが先々週の金曜。テルミが部屋で首を吊ったのが先週の日曜。学校休んでメールも返さないテルミをおかしいと思ってテルミの家に電話してテルミのお母さんの4年ぶりくらいに喋ってテルミが意識不明の状態で鳥取総合病院に入院してるのがわかったのが月曜。オレはすぐにやばいと思ってジョニーを探したが、ジョニーはもう勝手に復讐に行って、あっさりと返り討ちにあってレンチで頭を殴られて頭蓋骨陥没で同じ鳥取総合病院に入院中。テルミを好きだったオレが親友のジョニーのためにその気持ちを抑えたのが中二の秋。んで完全にキレたオレが生まれて初めて人を殺して大仏の近くに死体を埋めたのが今週の月曜。実行犯たち三人は片付けたが、リーダーにも落とし前つけてもらわないとオレが怒りで気が狂いそうなので、オレは今レン・イーモウを追ってプロレスを見に来てる。今頃砂丘の中でその体を微生物に分解されてる羽賀研二(なんまんだぶなんまんだぶ。でもお前が悪いんだぜ)が言うには、レン・イーモウは女をレイプしたこともなければ自分で暴力を振るうことも好まないらしい。だからと言って、女の子がレイプされてる現場でニヤニヤしながらハッパとか吸ってるような奴はオレは絶対に許さない。実行犯たちだって殺すつもりはなかったし、その件に関わってないレンをそのために殺すのは確かに少しは気がひける。だが、中途半端にシメたら行方不明になってる実行犯の件でアシがつくかもしれない。だからオレはオレの復讐と保身のためにレンを殺すかもしれないと思ってる。
 プロレス会場に忍び込んだオレは指定席の券がないので、レンの少し後ろにある空いてる席に座るけど、その席を買った家族連れが遅れて来たんで「あ、間違えちゃったー」なんていいながらまた空いてる席に移動したところで、選手がリングインする。すごい歓声がわきおこる。EWHのエース三沢信長だ。対抗するコーナーでは千葉島から来たマイク下田が芋焼酎のとっくりを持って三沢をまっすぐに見据えている。そこでオレは「おや?」と思う。あのマイク下田の目はエンターテイナーの目じゃない。グラディエーターの目だ。オレは理解する。なぜならオレも人を殺したからだ。羽賀たちを埋めたあとに公衆トイレの鏡に映ったオレと同じ目をマイク下田はしている。なぜだかオレはそこで泣きそうになる。手が震える。あのマイク下田と話してみたい。できることならば、助けてほしい。そう考えたところで、オレはオレが人を殺したせいで少しおかしくなってることを自覚する。そんな自分に驚いているところにゴングが鳴った。

 右手を上にあげニギニギしながら広いリング内を右回りに移動しようとしていた三沢に、マイク下田はまっすぐ少し小走りに近づいていきなり口に含んでいた芋焼酎を三沢の顔に吹きかけた。マイク下田はすぐにパンツに手を突っ込むと、顔を抑えてヨロヨロする三沢の足元に取り出した落花生を撒く。三沢が落花生に足をとられて転ぶ。ラッセル・クロウにそっくりなマイク下田は三沢の喉元を全体重かけて踵で踏みつけ、三沢が10秒くらいのた打ち回った末にピクリとも動かなくなってあわてたレフェリーが両手を振って、そこで試合は終わる。オレも含めて観客は全員ポカーン。マイク下田はキョロキョロするとリングから降りて、そして声を拾うところに大きなピンクのスポンジがついたマイクを持ってまたリングに上がってくる。肩を上げて大きく息を吸い込むようなジェスチャをしてマイク下田がボソボソと話はじめる。
「あの、こういうこと言うと、うわっ理屈っぽい人間ってやだなぁ、なんて思う人が大勢いらっしゃるような気も少しばかり、ほーんの少しばかりするんだけどさぁ。そもそもワスが…」
 そこで客電が落ち会場が真っ暗になる。マイク下田の声も聞こえなくなる。停電したらしい。代々木第一体育館の非常用の電灯がぽつぽつとついていって、少しだけ会場が明るくなる。それらの弱い電灯がつききったところで、ガシャーン!黒い影が天井を突き破って落ちてきてドカン!と大きな音。黒い影がリングにうずくまっている。それはバットマンだった。

闇夜(やみよる)30

 羽鳥が失踪したけれど手がかりがないので私はどーんと構えることにした。だいたいキクリンを探すように頼んだのになんで失踪するわけ?ちょーマジムカつく。私はV6(ぶいろく)の岡田の粗末なモノを忘れるためにパパに無理矢理に入会させられたダンス教室「つきかげ」に顔を出した。準備運動をして身体を温める。それから手足に気合を入れて動かす。wiiフィットで鍛えぬいた足を振り上げる。アン・ドゥ・トロワ。アン・ドゥ・トロワ。アン・ドゥ・トロワ。アン・ドウ・トリャー!アン・ドウ・トリャー!私より先に教室に来ていたエリカとアユミが不細工な顔で私の華麗な舞いに我を忘れているのを私は感じる。ふふふふ。まあ私から見てもエリカのフラメンコは顔と同じで学校で飼ってる鶏が飛び跳ねるみたいな不細工な踊りだし、アユミは努力しすぎな感じが見てて暑苦しいのよね。申し訳ないけれど。まあ、とくと見たまえダンス生徒諸君!アンドウトリャー!私の手刀がマス大山クラスの超高速で虚空を切り裂く。トリャー!

 私はここに来る前にちょっと自分の力を試してみた。私には瞬間的に移動する力がある。これ、移動っていうのかな。ぴゅーっと移動するのとはちょっと違っていて、パッと風景が切り替わる感じ。移動する距離が1メートルくらいしかないし、パッパッパッーっと連続して移動するともんのすごい疲れるからあんまりやりたくないけれども。


 「そんな動きで妖精パックになれると思って?」


 先生の出現。いつも長い髪で顔の半分を隠している月影先生。私は先生に会うたびに不細工は可哀想だなって思う。だって顔の半分を隠さなきゃいけないんだよ?私は先生が苦手。なにかにとりつかれてるみたいな顔しているんだもん。妖精パック?なにそれ?意味わかんないし。


 「おやりなさい!」月影先生のヒステリックな号令。


 あれ?いつの間にか私の周りを六気筒エンジンをこよなく愛するバイクチームV6のメンバーが6人ずららっと取り囲んでいた。岡田SPスペルマンも包帯グルグルのミイラ男状態でWAのパーツになっている。6人がWAになって、私が中心。V6は突然手に持ったゴムボールを投げ合い始めた。私のナイスバディに当たる。イタ!痛いって!イタタ。痛いよ!私は当たらないようによけ始める。いつからかわからないけれど教室にはノリのいい音楽が流れていた。懐かしい。どこかで聴いたことがあるメロディー。私は…この音楽を…

諦めないで大切な少しの意地と君よダーリン
刺激的ほら素敵見える世界がきらめくわ
手探りの私にも少し分かる気がしてるんだ
やわらかな君のタイミング
ずるいでしょchu chu chu
love the world

 曲の終わり。私はすべてのボールを完璧に避けれるようになっていた。最後のボールの描くアーチを私はブリッジでかわした。「それよ。そのイナバウアーを忘れないで!」月影先生が叫んでいるとき私は別の世界にいた。先生の大声がずっと遠い世界の出来事みたい。私は。私は。鳥取のすべてを受信していた。音声。有線。無線。公開。非公開。すべての人の繋がりを俯瞰するようにみていた。「表面温度、3000度を維持」「…て」「第6衛星回線を再接続。目標を自動追尾中」「…けて…」「アッコ沢尻エリカに不快感」「…すけて…」「電磁波放電率、0.7%上昇」「…けて…」「第三光学観測所より入電。目標周辺に異常磁場を観測」「目がピカピカ」「全超伝導超々高圧最終変圧器集団の開閉チェック完了。問題なし」「助けてー!」羽鳥!私は羽鳥の声を聞いた。耳ではなく身体で。羽鳥は羽鳥の部屋にいる。なにか変容に襲われて。羽鳥はいる。泣いている。情けない声で助けを求めている。イナバウアーから直立姿勢。ばばーっと走り教室を飛び出した。携帯がちりちりと鳴る。背中で月影先生が「紅天女!」といっているのを、私は聞かない。私は別のものを聞いた。声を。私は携帯を取り出す。液晶が猛スピードを産み出す振動で揺れ幾重になり文字が読み取れない。

 馬鹿っぽい声がいう。


 「いっしょに羽鳥を奪還するかあ」

 「カンチ?」

闇夜(やみよる)29

 南北会談の舞台として設定されたホテル・ネオ・オークラの「麻生の間」に各地からメディア関係者が詰めかけていた。会談を終えた南北の代表者たちがここで会見を行う予定だったのだ。1年と2週間前の北日本連邦の独立宣言、および宣戦布告ぶりに全世界の目がこの極東の島国に集まろとしていた――江戸幕府の時代から中央政権によって治められてきた列島のなかに新しい国家が生まれ、承認された瞬間を目撃しようと。世界中から集まった記者、ジャーナリストたちは歴史的な事件を目前に控え、落ち着かない様子で各々が用意したカメラをいじっていた。
 しかし、彼らの期待をよそに冷や汗をかき続けていたのは、日本国首相、木村拓哉だった――北日本からやってくるはずの7人の県知事たちが姿を見せないのだ。本来ならば、7人の県知事たちを載せたVIP用のリムジンがホテル・ネオ・オークラのエントランスに乗り付けるはずの時間からとうに3時間が経過していた。北日本からの連絡は一切ない。何かが起きているに違いなかった。木村の秘書たちは情報収集に右往左往している。


「首相、テレビを……テレビをご覧ください!」
 木村が控える部屋へと大慌てで入ってきたのは外務大臣森且行である。言われるがままにテレビのスイッチを入れた木村は、森が慌てている原因を理解する――「北日本代表、誘拐」。木村が目にしたテロップにはそう書かれていた。
「……繰り返し、お伝えします。本日木村総理との会談が予定されていた北日本代表の7人の県知事ですが、右翼団体『現水会』を名乗る者によって誘拐されたとの情報が入ってきました。ご覧ください、こちらがインターネット上に公開された犯人たちによる犯行声明です」
 切り替わった画面に映し出されたのは、目隠しをされ猿ぐつわを噛まされた7人の県知事たちだった。そして彼らの前には麻のズタ袋を頭からかぶった男が一人立ち、映像の視聴者に向けてこう話しかけていた。
「真の愛国者たる我々は北日本連邦の解体を要求する。1週間以内にこの要求が通らなければ、7人の県知事たちの命はない」
 ここで映像はとぎれる。ズタ袋のくり抜かれた穴から覗いた目は湿った色をしていた。


 知事誘拐事件のすべてが茶番劇だった――1週間後に7人の県知事たちは自力による「必死の救出劇」を語ることになるが、それらは今回もすべてセルゲイ・オマンコーノフのシナリオ通りに仕組まれたものに過ぎなかったのだ。しかし、誘拐された(ように装った)県知事たちのおかげで、南北関係はまた大きく変動することになる。これまで完璧に国土を防衛する一方だった北日本連邦の軍営が、南日本へと侵入する大義名分を得たのだ――テロリズムには屈しない。南日本の不埒な連中への抗議は、実力をもっておこなっていく。それが県知事たちの代理から出された答えだった。


「お前らの血は何色だーー!」
 南北の境界線の上で、県知事たちを誘拐した犯人役を演じた「湿った目をした男」は出撃を間近に控えた軍の荒くれどもの士気を高めるべく、そう呼びかけた。
「やりたい放題やってくれて良い。とにかく動くものがあったら撃て。向かってくるものがあったら殺せ。欲しいものがあったら奪え。目障りなものは壊せ。俺たちが派手に動けば動くほど、それは効果的なデモになるんだからな!」
 湿った目をした男に率いられた南日本防衛軍の精鋭たちは笑った。そのなかにはブルース・ウェインもいる。「やりたい放題やって良い」。その言葉を聞いて暴力と血のもたらす快楽だけのために闘ってきた男、ウェインは勃起する。
「あんた、ブルース・ウェインとか言ったっけか。ウホッ、なんだって腰のあたりが立派なことになってるんじゃないの。南日本の黒髪の女を犯すのが今から楽しみでしかたねぇってか?さすがアメ公だねぇ、あんた。まるでバットみたいじゃないか、それ。そんなもん突っ込んだら、オマンコがブッ壊れちまうぜ」
 めざとい荒くれの一人はウェインの奮りたったシロモノの変化に気がついてこう言ってクスクス笑うのだった――そして、その日からウェインは違う名前で呼ばれるようになる。バットのようなイチモツを持つ男「バットマン」として。
「お前らの血は何色だーー!!」
 湿った目をした男は何度となく荒くれたちに向かって同じ言葉を叫んでいた。


 1週間。たったそれだけの間で、東京は壊滅する。そこにあったすべてが焦土へと、灰燼に帰する。逃げ遅れた人々の血が流れる。この「火の7日間」以降、北日本連邦が支配する領土は関東全域へと拡大し、日本列島はほぼ完全に2分されることとなったのだ。

闇夜(やみよる)28

 おはよう。
 こんにちは。
 おやすみ。
 さようなら。
 ありがとう。
 それは、ただの挨拶。Just a 挨拶。誰でもする挨拶。愛する人に、友達に、好きでもない人に、送る言葉。声をかけるその行為そのものによって、それぞれの宇宙を流れる星は一瞬でもお互いを認識できる。真っ暗な孤独の中では、それですら充分に救いになる。だが、俺はもはや挨拶をする人間を一人も失ってしまったらしい。いつからか、こうなった。これは俺の望んだことのはずだった。何も悲しくはない、そうだろう。そういうことなのだろう。考えないようにしているが、俺はおそらく同性愛者なのだと思う。思い出すのも嫌になるが、小学生のとき、あの修学旅行の夜、最悪な形でそのことは露呈してしまった。
 全員が俺を蔑み遠ざける中、綾香だけは俺の友達でいてくれた。俺はそれから綾香のことは少しだけ信頼していた。バスケ部の試合の応援で、興奮しすぎた綾香が拡声器で「オジャパメン」を23分間熱唱し続けたせいで、東中のスケ番貴族、梅宮登志子に目をつけられてヤキを入れられそうになったときもオヤジの部下を使って、こっそり助けてあげた。
 でも、今は少し気まずくなってしまった。カンチは、明確に俺から綾香を遠ざけようとしている。なぜだかわからないが、カンチは俺達のチームの犯罪行為をそれなりに知っているようだ。そして、俺達を憎みきっている。俺達のことも、どうにか処分したいが、おそらく奴は「それどころじゃない」のだろう。俺達チンピラのチンケな犯罪に関わってるような暇はないから、仕方なく黙認しているが、俺のことは周到に綾香から遠ざけようとしている。
 だがそれは、俺にとっても都合がいいことでもある。卍LINEを吸収してから俺達のチーム、始皇帝はずいぶん変わっちまった。卍LINEから流れてきた連中、あいつらは本物のワルだった。卍LINEシノギにしてた少女売春と大麻及び覚せい剤の売買は俺達に莫大な利益をもたらした。それとともに、ただたむろして楽しくやっていただけのはずの俺達は犬山組に、売り上げの40%を上納しなくてはいけなくなった。これじゃあ、ただのヤクザ予備軍だ。クソ。しかしオヤジの力を使えば、もっとめんどくさい事態になりかねない。問題が山済みだった。とにかく、そんなことになった俺は綾香みたいにまっとうな世界に生きる人間から離れたほうがいいのだろうと思う。カンチも俺がそう思っていることを感じているはずだった。



 そんなことを考えながら、レン・イーモウは鳥取第一体育館に向かって、大きな体を左右に揺らし、腿ずれを気にしながら歩いている。また、同時に始皇帝の当面の問題である、チーム一の俊足で白鳥公園にて大麻の販売要員をしていたアクシズ野田が真っ青な中世ヨーロッパ風の鎧を来た巨体の男によって殺されたこと、についても考えを及ばせている。バットマンがいなくなったら、ロビンマスクが現れた。バットマンは子供を殺しはしなかったがロビンマスクは完全に狂っている。アクシズ野田は全身数十箇所を拳で殴られ体中の骨が粉砕骨折していた。撲殺された遺体はとても直視できるような状態ではなかった。「あの変態は俺達を狙っているのか?しかし…」レンはわからないことを考えるのはやめた。
 レンは考えを切り替えるのが早い。鳥取第一体育館の入り口でチケットをモギリのお姉ちゃん−真木よう子似の美人−に切ってもらってからは、彼の頭は今日のイベントでいっぱいになった。EWH、アースウィンド&ハラキリと名乗るプロレス団体。今日はEWHのエースでありエルボードロップを得意とする三沢信長の特別試合が開催されるのだ。朝鮮併合時に追い詰められやけっぱちになって、キム・ホクホク総書記が発射したノドンテポドン全部盛り東京大爆撃とそれによって生じた関東地獄地震によって本土から切り離された千葉島。千葉島のプロレスラーが鳥取に来るのは初めてだった。去年まで千葉島は東京自治区としか国交がなく、千葉島の人間が新宿より西部に出かけるにはパスポートが必要だったからだ。今日は千葉島から来た毒霧の使い手マイク下田と三沢信長の60分一本勝負が行われる。興奮しきっていたレンは席につくなり「あー、やべー。ちびりそうだぜ」と、ひとり言を口にした。

闇夜(やみよる)27

 角界を追われたアウトロー力士が繰り広げる大麻相撲中継が終わったので、私は電脳空間「スプロール」に没入、テレビをオフにした。地デジver3.0が呼応して光を失うのをリアルの網膜で見る。再び没入。ミュージックボックスからお気に入りの曲を取り出し電脳で聴く。電気信号化されて染み込んでくるミュージックは壊死した水母のようだ。私ははるか昔、同じことを口に出したことがある。ヨコハマ。中華街。私の言葉を聴いた男は「鼓膜で聴くのと変わらないさ。旦那は凝り性、アーティストすぎるのさ」と言って翌朝、本牧D-4埠頭の冷たい海に浮いた。ライセンスを所持していない私はため息をつきながらサウンドを待つ。やれやれ。電脳にため息は存在しない。私が選んだ曲は発表当時は泣かず飛ばずで、3rdシングル「恋がピカピカ」とベスト盤を出した後、TKプロデュースで行方不明になったグループのものだ。曲が流れだす。GIRL NEXT DOORの「偶然の確率」。甘美で重厚なチューンが私の心労を紛らせてくれる。
 娘が夜な夜な出かけるようになったのはこの春からだ。私の目の届かないところで悪い連中とつるんでいるのではないか?最近は原付バイクを乗り回すようになり、ギターを持ち歩くようになった。娘を預かったのは大戦直後だ。15年になる。司令部からの命令は簡潔だった。対象の存在を秘匿しつつ能力を覚醒させよ。私は娘の電脳の奥に眠っている能力を覚醒させるパルスをチェゲアスの歌に隠蔽し、この、偽りの家で流し続けた。私の努力にも関わらず娘は目覚めていない。「このまま目覚めないほうがあの子にとって幸せなのかもしれない」ふと、己の任務と相反する思いがよぎるときがある。そんなときだ。電脳大麻をランさせて「GIRL NEXT DOOR」を聴くのは。
 私の任務への忠誠は、いつしか違ったものへと変容していった。電脳空間で記号化するのは難しい。0と1で構成された無味乾燥な空間では。陳腐な言い方をするなら愛だ。まさしく愛だ。あーちゃん、我が命の光、我が腰の炎。あー・ちゃ・ん。舌を口蓋に貼りつかせて喉をならし、三歩めにそっと口をつむる。あー・ちゃ・ん。娘は私を慕ってくれた。「パパ!」「パパ…」「パーパ」私は任務を超えた地点で娘を愛した。本当の娘として。それなのに。娘が私を避けるようになったのはいつのことだったか。電脳を検索。コンマ1秒後。風呂/別/約5年前。食事/別/約1年前。洗濯物/別/7ヶ月前。チャゲアス/サイテー/6ヶ月前。会話/微量/約1ヶ月前。検索結果の膨大さと残酷さに私は検索ソフトに「否」を命じる。データは直接私の頭脳に流れ込んでくる。目を背けられない電脳空間を呪う。私は娘に嫌われているのか?あーちゃん!私はこんなに愛しているのに!あーちゃん!
 ガレージの方から原付のエンジン音が始まる。私はソファから立ち上がり窓際によりカーテンを開けた。原付。ヤマハ・メイト。娘の姿はない。背後で階段を駆け上がるスタッカート。人間の速度を超えている打撃音の連続。もしかして娘は覚醒しているのか?私の幸せな時間は終わってしまうのか?あー・ちゃ・ん…。駆け下りてくるスタッカートの速度に私は娘の覚醒の兆候を知った。窓を開き、ギターを担いでヤマハに跨った娘の背中に声をかける。「気をつけていけよー」娘は月明かりのなかへ猛スピードで飛び出していった。私の娘。コードネーム=クローソー。かつて「Perfume」と呼ばれ畏れられた戦いの女神。私の電脳に許された自閉モードの限界が今日も近づきつつある。今夜は娘が帰還するまでトレースするしなければならない。それは任務なのだろうか?愛なのだろうか?私は結論を出すのを慎重に避けた。それから肌を白く保つ儀式を行うために洗面所に隠した薬品の蓋を開けた。私はコードネーム=MJ。別名「かつて黒かった男」。薬品が肌に染みて声が出る。ポウ!

闇夜(やみよる)26

 1週間もあればこんな争いは収まるだろう、北日本連邦などという馬鹿げた妄想染みた国など消え去ってしまうだろう――という予想はすべて裏切られ、南北に別れた日本列島における紛争は長期戦の様相を見せ始めていた。しかし、圧倒的に優勢だったのは世界から孤立していたはずの北日本の方だった。その要因のひとつとして、函館沖に浮かんだ巨大パイプが生み出す豊富な資源があげられよう。7人の県知事たちは、中国そしてロシアの闇商人たちと密約を結び、無尽蔵のメタンハイドレートと引き換えに食料、兵器、そして傭兵を得ていたのだ。無論、その影にはセルゲイ・オマンコーノフの存在がある。北日本連邦は富んだ。まるで千数百年もの昔に存在した奥州藤原氏治世下の栄華が蘇ったようだった。独立宣言の日に燃えるようにして興った祭の晩から、北日本の人々の誰もが実際の歳よりも20歳は若く見えるほどに生き生きとし、街には物が溢れ、まるでそこには戦時下の様相と言ったものは見当たらない。
「あの日釧路港でオマンコーノフと出会ってから、覚めない夢をみているようだ」
 北日本最大の街である仙台市の一番町に聳え立つ高層ビル最上階から急速に発展していこうとする市街の様子を眺めながら、宮城県知事、上野俊哉はそう思った。北日本の各地では再開発計画が急ピッチで進められている。1軒、2軒と老朽化した建築物は解体され、すでに何軒もの新しい建物の地盤工事が始まっている。


 南からは日夜、北日本の領内へと兵が向けられていたにも関わらず、北日本の領内がこれほどまで素晴らしい繁栄と発展を見せたのはすべて、南北の境界線上へと蟻が入る隙間もないほど固められた北日本防衛軍の尽力のおかげだった。それらはまさに鉄壁であり、あるときは山を越えて、あるときは南日本からの亡命者――驚いたことに“脱南者”と呼ばれた亡命者の数は宣戦布告の日からを増え続け、開戦から1ヵ月で4000人にも登っていた――を装って領内への進入を試みる、南日本の兵士たちを駆逐した。しかし、彼ら北日本防衛軍の大半の兵士たちは、北日本に生まれた人々によって編成された正規の軍人たちではない。むしろ、正規に防衛軍へと所属していたのは全体のわずか2%にも満たず、しかもその2%は皆、補給などの後衛部隊の人間だった。それもそのはず正式に軍が設立されたのは宣戦布告のその日であり、意気高く志願した男たちが実践に耐え得る兵士と成長できるほど時間がたっていなかったのだから。
 彼ら正規の軍人たちに代わって活躍したのは、メタンハイドレートと引き換えに北日本連邦へと身を売った傭兵たち、、オマンコーノフが密かに送り込んだ元ロシア軍唯一の女准将、アナ=ル配下の特殊戦と呼ばれる兵たち、そして戦に乗じて名をあげよう、身をたてようと自らこの地に集まってきた荒くれたちである。彼らは半世紀以上アスファルトの補修がおこなわれていない荒れた道路の上や、視界を塞ぐようにして生い茂った雑木林のなかで眠り、そして南からやってくる向こう見ずな兵士たちの命を奪い続けた。そして、ブルース・ウェインもそのひとりだった――しかし、彼が傭兵とも特殊戦とも、荒くれたちとも違っていたの、彼が戦場に求めたものが血と暴力だけだったことだ。
「あんた、アメリカ人だろう?いいのかい、こんなところにいて。敵の中には、あんたの国のヤツらもいるだろうに」
 ある日、ひとりの荒くれがウェインにそう訊ねた。だが、ウェインが相手に返したのは、歪んだ微笑みだけだった。その表情がウェインが敵のはらわたをめがけてライフルの引き金を引いたり、寸分の狂いもなく相手の眉間へとナイフを投げ込んだ瞬間に見せるものとまったく同じものだとは、荒くれも、ウェイン自身も気づいていない。しかし、アメリカでの生活をすべて捨て、北日本にやってきてから自らのなかにこれまでにない喜びが泉のようにわきあがってくる感覚に彼は日々打ち震えている。暴力によって、相手に痛みを、死を与えることで喜びを得る感覚――まったくの予感によって、吸い寄せられるようにこの地を訪れたウェインのなかで、それが確信へと変わっている。「自分にこれほど人が殺せるとは……アメリカにいた頃は予想もしていなかった」。笑いが止まらない。殺せば殺すほど、力が沸いてくるような気がする。引き金を引くたびに、首筋に快感が電撃のように走る。


 宣戦布告から1年が経過する。


 北での急速な発展とは正反対に南日本は疲弊しきっていた。この1年間で彼らは何も得ることができなかったのだ。それどころか、失い続けていた。兵士たちの命を――戦死者は日米合わせて1万人を軽く上回っている。資源を――“マイク”を奪われたおかげで南日本の自動車のほとんどが走れなくなっている。金を――戦争資金を捻出するために発行した臨時国債によって、20世紀から持ち越した国の借金は3倍にも増えた。国の疲弊は内閣総理大臣木村拓哉の外見にも影響を与えているように思えた。彼はこの1年間で別人のように痩せ衰え、威厳や風格といったものをどこかに落としてきたように見える。1年間、闘い続けてこれた拠り所はもはや意地でしかない。
 しかし、それも風前の灯火になっていた。国会では休戦どころか、終戦協定の調停に向けての議論がおこなわれていたのだ。毎朝、木村は首相官邸のベッドのなかで眼が覚めるたびに思った。「まだ、夢が覚めていないみたいだ」。そして、すぐさま、エネルギー庁長官とともに自殺した前首相の後を引き継ぎ、史上最年少で総理大臣へと抜擢された自分の運命を呪いだしたのだった。終戦協定の調停、それはほぼ敗戦を意味している。敗戦を経験した歴史上2人目の日本国首相として自分の名が残されることの不名誉も木村の目の前を暗くさせた。


 だが終戦協定を持ちかけてきたのは、意外なことに北日本連邦の方からだった。木村は諸手をあげて喜んだ――「敗戦」という2文字をこの国の歴史に、自ら書き加えなくても済むのだ、と。協定を調印する場をすぐに用意しろ、たった1年で灰色になった髪をかきあげながら木村は外務大臣森且行に命じた。しかし、木村はこのとき森が密かに北日本と、というよりもむしろセルゲイ・オマンコーノフと通じていたことに気づいていない。
 開戦から1年と2週間後に開かれた南北会談は、火の7日間の前奏曲として用意されたものに過ぎなかったのだ。