闇夜(やみよる)27

 角界を追われたアウトロー力士が繰り広げる大麻相撲中継が終わったので、私は電脳空間「スプロール」に没入、テレビをオフにした。地デジver3.0が呼応して光を失うのをリアルの網膜で見る。再び没入。ミュージックボックスからお気に入りの曲を取り出し電脳で聴く。電気信号化されて染み込んでくるミュージックは壊死した水母のようだ。私ははるか昔、同じことを口に出したことがある。ヨコハマ。中華街。私の言葉を聴いた男は「鼓膜で聴くのと変わらないさ。旦那は凝り性、アーティストすぎるのさ」と言って翌朝、本牧D-4埠頭の冷たい海に浮いた。ライセンスを所持していない私はため息をつきながらサウンドを待つ。やれやれ。電脳にため息は存在しない。私が選んだ曲は発表当時は泣かず飛ばずで、3rdシングル「恋がピカピカ」とベスト盤を出した後、TKプロデュースで行方不明になったグループのものだ。曲が流れだす。GIRL NEXT DOORの「偶然の確率」。甘美で重厚なチューンが私の心労を紛らせてくれる。
 娘が夜な夜な出かけるようになったのはこの春からだ。私の目の届かないところで悪い連中とつるんでいるのではないか?最近は原付バイクを乗り回すようになり、ギターを持ち歩くようになった。娘を預かったのは大戦直後だ。15年になる。司令部からの命令は簡潔だった。対象の存在を秘匿しつつ能力を覚醒させよ。私は娘の電脳の奥に眠っている能力を覚醒させるパルスをチェゲアスの歌に隠蔽し、この、偽りの家で流し続けた。私の努力にも関わらず娘は目覚めていない。「このまま目覚めないほうがあの子にとって幸せなのかもしれない」ふと、己の任務と相反する思いがよぎるときがある。そんなときだ。電脳大麻をランさせて「GIRL NEXT DOOR」を聴くのは。
 私の任務への忠誠は、いつしか違ったものへと変容していった。電脳空間で記号化するのは難しい。0と1で構成された無味乾燥な空間では。陳腐な言い方をするなら愛だ。まさしく愛だ。あーちゃん、我が命の光、我が腰の炎。あー・ちゃ・ん。舌を口蓋に貼りつかせて喉をならし、三歩めにそっと口をつむる。あー・ちゃ・ん。娘は私を慕ってくれた。「パパ!」「パパ…」「パーパ」私は任務を超えた地点で娘を愛した。本当の娘として。それなのに。娘が私を避けるようになったのはいつのことだったか。電脳を検索。コンマ1秒後。風呂/別/約5年前。食事/別/約1年前。洗濯物/別/7ヶ月前。チャゲアス/サイテー/6ヶ月前。会話/微量/約1ヶ月前。検索結果の膨大さと残酷さに私は検索ソフトに「否」を命じる。データは直接私の頭脳に流れ込んでくる。目を背けられない電脳空間を呪う。私は娘に嫌われているのか?あーちゃん!私はこんなに愛しているのに!あーちゃん!
 ガレージの方から原付のエンジン音が始まる。私はソファから立ち上がり窓際によりカーテンを開けた。原付。ヤマハ・メイト。娘の姿はない。背後で階段を駆け上がるスタッカート。人間の速度を超えている打撃音の連続。もしかして娘は覚醒しているのか?私の幸せな時間は終わってしまうのか?あー・ちゃ・ん…。駆け下りてくるスタッカートの速度に私は娘の覚醒の兆候を知った。窓を開き、ギターを担いでヤマハに跨った娘の背中に声をかける。「気をつけていけよー」娘は月明かりのなかへ猛スピードで飛び出していった。私の娘。コードネーム=クローソー。かつて「Perfume」と呼ばれ畏れられた戦いの女神。私の電脳に許された自閉モードの限界が今日も近づきつつある。今夜は娘が帰還するまでトレースするしなければならない。それは任務なのだろうか?愛なのだろうか?私は結論を出すのを慎重に避けた。それから肌を白く保つ儀式を行うために洗面所に隠した薬品の蓋を開けた。私はコードネーム=MJ。別名「かつて黒かった男」。薬品が肌に染みて声が出る。ポウ!