闇夜(やみよる)29

 南北会談の舞台として設定されたホテル・ネオ・オークラの「麻生の間」に各地からメディア関係者が詰めかけていた。会談を終えた南北の代表者たちがここで会見を行う予定だったのだ。1年と2週間前の北日本連邦の独立宣言、および宣戦布告ぶりに全世界の目がこの極東の島国に集まろとしていた――江戸幕府の時代から中央政権によって治められてきた列島のなかに新しい国家が生まれ、承認された瞬間を目撃しようと。世界中から集まった記者、ジャーナリストたちは歴史的な事件を目前に控え、落ち着かない様子で各々が用意したカメラをいじっていた。
 しかし、彼らの期待をよそに冷や汗をかき続けていたのは、日本国首相、木村拓哉だった――北日本からやってくるはずの7人の県知事たちが姿を見せないのだ。本来ならば、7人の県知事たちを載せたVIP用のリムジンがホテル・ネオ・オークラのエントランスに乗り付けるはずの時間からとうに3時間が経過していた。北日本からの連絡は一切ない。何かが起きているに違いなかった。木村の秘書たちは情報収集に右往左往している。


「首相、テレビを……テレビをご覧ください!」
 木村が控える部屋へと大慌てで入ってきたのは外務大臣森且行である。言われるがままにテレビのスイッチを入れた木村は、森が慌てている原因を理解する――「北日本代表、誘拐」。木村が目にしたテロップにはそう書かれていた。
「……繰り返し、お伝えします。本日木村総理との会談が予定されていた北日本代表の7人の県知事ですが、右翼団体『現水会』を名乗る者によって誘拐されたとの情報が入ってきました。ご覧ください、こちらがインターネット上に公開された犯人たちによる犯行声明です」
 切り替わった画面に映し出されたのは、目隠しをされ猿ぐつわを噛まされた7人の県知事たちだった。そして彼らの前には麻のズタ袋を頭からかぶった男が一人立ち、映像の視聴者に向けてこう話しかけていた。
「真の愛国者たる我々は北日本連邦の解体を要求する。1週間以内にこの要求が通らなければ、7人の県知事たちの命はない」
 ここで映像はとぎれる。ズタ袋のくり抜かれた穴から覗いた目は湿った色をしていた。


 知事誘拐事件のすべてが茶番劇だった――1週間後に7人の県知事たちは自力による「必死の救出劇」を語ることになるが、それらは今回もすべてセルゲイ・オマンコーノフのシナリオ通りに仕組まれたものに過ぎなかったのだ。しかし、誘拐された(ように装った)県知事たちのおかげで、南北関係はまた大きく変動することになる。これまで完璧に国土を防衛する一方だった北日本連邦の軍営が、南日本へと侵入する大義名分を得たのだ――テロリズムには屈しない。南日本の不埒な連中への抗議は、実力をもっておこなっていく。それが県知事たちの代理から出された答えだった。


「お前らの血は何色だーー!」
 南北の境界線の上で、県知事たちを誘拐した犯人役を演じた「湿った目をした男」は出撃を間近に控えた軍の荒くれどもの士気を高めるべく、そう呼びかけた。
「やりたい放題やってくれて良い。とにかく動くものがあったら撃て。向かってくるものがあったら殺せ。欲しいものがあったら奪え。目障りなものは壊せ。俺たちが派手に動けば動くほど、それは効果的なデモになるんだからな!」
 湿った目をした男に率いられた南日本防衛軍の精鋭たちは笑った。そのなかにはブルース・ウェインもいる。「やりたい放題やって良い」。その言葉を聞いて暴力と血のもたらす快楽だけのために闘ってきた男、ウェインは勃起する。
「あんた、ブルース・ウェインとか言ったっけか。ウホッ、なんだって腰のあたりが立派なことになってるんじゃないの。南日本の黒髪の女を犯すのが今から楽しみでしかたねぇってか?さすがアメ公だねぇ、あんた。まるでバットみたいじゃないか、それ。そんなもん突っ込んだら、オマンコがブッ壊れちまうぜ」
 めざとい荒くれの一人はウェインの奮りたったシロモノの変化に気がついてこう言ってクスクス笑うのだった――そして、その日からウェインは違う名前で呼ばれるようになる。バットのようなイチモツを持つ男「バットマン」として。
「お前らの血は何色だーー!!」
 湿った目をした男は何度となく荒くれたちに向かって同じ言葉を叫んでいた。


 1週間。たったそれだけの間で、東京は壊滅する。そこにあったすべてが焦土へと、灰燼に帰する。逃げ遅れた人々の血が流れる。この「火の7日間」以降、北日本連邦が支配する領土は関東全域へと拡大し、日本列島はほぼ完全に2分されることとなったのだ。