闇夜(やみよる)25

「迎合界isファッキンバビロンの呪縛…どうしてこんなブルシットになっちまいやがったんだぜ!?」
 窪塚洋介はひとりごちた。こないだまでは、うまく行っていた。出席回数が足りず留年してもう一度一年生をやらされると聞くまでは。そのこと自体はどうでも良かったが、それを機に運気が悪くなったのだ。そう窪塚は信じていた。
 去年から始めた商売は窪塚曰く「パーフェクトなアイディア」だった。卍LINEの妹分にあたるチーム「℃-ute」、そこの女子中学生にウリをさせる。商売相手はmixiやらモバゲーやら旧世代のSNSで食いついて来る中年男たち。完全会員制と称して個人情報を必ず聞き出す。多くの金を落とす常連客は優遇しサービスする。窪塚自身が女をオヤジの家までバイクで送ることすらあった。一度や二度しか利用しなかったオヤジは、卍LINEのメンバーが逆に強請りをかける。大して金にならないケースもあったが、窪塚たちは徹底的にやった。それが一番楽しかった。家族を崩壊させ、社会的地位を失わせ、ケツの毛まで金をむしる。最高に興奮した。それまでは、それでうまく行ってた。いつもと同じはずだった。犬山万寿夫。あのメガネをかけた小太りの男も、窪塚がちょっと特殊警棒で脇を突き上げてやると、小便を漏らし泣きながら土下座した。ケチな、つまらないオヤジの一人。サイフには十万円札が3枚とクレジットカード、現金は少ないが上々だろう。さらに脅すと窪塚のローカットブーツのつま先まで舐めた。端的に言ってカスだった。


 しかし、まさか奴が犬山組組長の血縁だったことは大きな誤算だった。諜報係のムラヤマをシメたが、むろん何の解決にもつながらない。卍LINEには犬山組傘下の貧乏くさい鳥取ヤクザからの追い込みがかけられた。詫びで済むはずもなく、窪塚は殺されるかもしれない。
「サノバビッチ!…ちくしょう。ストマックがいてええええ」
 恐怖で二日間下痢が止まらなかった。さらに悪いことには、「始皇帝(ファースト・エンペラー)」の連中がびびってるチームのメンバーを取り込もうとしていた。「始皇帝」に入れば安全が約束される……どうして、そんなことができる?あの一年の(とは言え留年したせいで窪塚と同級生だが)レンとかいうデブ。なんでそんなコネを持ってるんだ。もはや小学校のときからつるんでいた幹部たちも窪塚の前から去っていってしまった。もう潮時か……。
 窪塚は電脳メガネのアドレス帳をめくり「大野智」に電話をかける。大野は呼び出し音が鳴る前に電話を取った。
「TAIMAHHHHHH!!!!!」
「ヤーマン、オレだ。サイクロプス。オレのハッパは全部お前にやるよ。アディオス、バビロンで会おうぜ」
「TAIMAHHHHHH!!!!!目がピカピカァァァァァァァァ!!!!」
 電話を切った。

 その時、右手のこうがチクッとした。綿毛のような何かが刺さっている。飛んできたであろう先を見ると……レン・イーモウ??あのメタボ野郎、右側だけ不気味に唇を歪めて笑ってやがる……。
 窪塚の顔から血の気が引いて真っ白になり、静脈だけがすべて青く醜く浮き上がった。そして窪塚は白目を剥いた。何か薬物を注射されたらしい……。ら、らめぇ。きもぴいいぃぃぃぃぃ。
「誰も見たことないような世界はもう目の前よ!つまり人呼んでザイオンに駆けてく俺らはライオン!」
 窪塚は叫んだ。クラスの全員がハッと窪塚の方を凝視する。
「ヤーマン!」
 そして窪塚は窓に向かって走り出した。

闇夜(やみよる)24

You dont know how you got here
You just know you want out
Believing in yourself
Almost as much as you doubt
Youre a big smash
You wear it like a rash
Star
Oh no, dont be shy
Theres a crowd to cry
Hold me, thrill me, kiss me, kill me
(U2-Hold Me, Thrill Me, Kiss Me, Kill Me)

 シノブのメールには大仏魂の画像が添付されていた。大仏魂。鳥取城址にそそりたつヒゲ付きのインチキ大仏。鳥取の恥。馬鹿っぽくて見るのもイヤなのにそれでもそこへと向かう私は友達思い。エンジン音ズババババババババババ。「こんなこともあろうかと思って」とか言って工作部長の真田君が勝手にリミッターカットしてくれた原付はらしくない重低音を響かせて加速、時速八十キロを軽くパスして鳥取市内を突き抜ける。はためくミニスカート正義のしるし。ズバババババ。ズバババババパラリラパラリラ。鳥取城址を息切れなしで登りきる。やるじゃん真田君眉毛ないけど誉めてつかわす。

 「ショータイム!」大仏魂の足元で汚いメイクをした男が叫んでる。
 「俺はジョーカー。お前の大事な大事なお友達ぉ誘拐ぃしたのはぁぁさらったのはぁぁ誰でもなぃぃこの俺だぁ」 叫び終えると顔をひきつらせて嫌な感じの笑い。キモい。私は加速してジョーカーに突っ込む。
 「俺様を殺せるのかぁお前にぃ。お前と俺は表と裏。お前と俺は同じ種族。ファミリーみたいなもんだ。お前に俺は殺せない。家族をやれるのか?なぁやれるのか?なあ轢けるのかお前にぃいいい!いい眼だ。怒りと暴力に満ちたいい眼だ。そっくりじゃねええかよおおおおお前と俺はぁ。轢けるもんなら轢いてみやがれええ」

 キモーい。やっつけたーい。と思いつつブレーキを引く蟻一匹殺せないいい子なわたくし。スカッ。スカッ。ありゃ。ブレーキが。スカッ。あれ?真田君眉毛と一緒にブレーキも外しちゃったのかな「こんなこともあろうかと思って」、まあこれなら事故ってことでおさまるからいいやと私はジョーカーを轢く。ずずどーん。「痛!普通ひかねえっ」ジョーカーはズザーッとすっ飛んでいった。私はタイヤを焦がしながらドリフトして原付を急停止させ、担いできたフェンダームスタングを手に仰向けに倒れてぴくりとも動かないジョーカーの元に歩いていった。

 「シノブは?」キズだらけの顔からは返事がない。「シノブは?」返事がないので触るのもいやだけど脇腹に蹴りを入れる。「ギャハハハハ」ジョーカーが口を開かないで喋う。もういちど蹴りを入れるとジョーカーの左手からジョーカー人形が出てきた。ギャハハハハ。手に取った人形が笑う。人形には背中にボタンがあって「ここを押してねペコリーノ!」と吹き出しが付いている。とりあえず押す。ポチ。倒れているジョーカーの目がクワっと開いた。

 「痛えなあ、俺をキズつけていいわけ?ゴホッ。ゲフッ。レィディよう。ジョーカー様に選ばれしラッキーなお友達の運命は俺様の手のなかにあるんだぜぇ。」ジョーカーは血を吐きながらヨタヨタと立ち上がり首を傾げ私の15センチ先でニヤリと笑った。

 「シノブはどこなの?」
 「シノブぅ?そいつが激ラッキーなお友達の名前かぁ。シノブぅ。シノブぅ。ラッキーメーンシノブぅブゥブゥ!ありゃ?」ジョーカーはわざとらしく悲しい顔をした。いちいちキモい。
 「レィディ。そりゃないそりゃあないぜぇ。今回当選した激ラッキーなお友達は二人だぜぇ」
 「二人?」シノブだけじゃないのー!
 「リッスン!」ジョーカーはわざとらしく手を耳に手を当ててウインクをした。何かが聞こえる。歌?
 「うぅおうぉおさぉWAになっへおほろぅらんりゃりゃらんりゃんりゃん」
 上だ。大仏魂のヒゲの両端に何かがぶら下がっている。目を凝らすと突然ぶら下がっているものが見えるようになった。ヒゲの両端には亀甲縛りっていうの?パパが隠れて読んでいる雑誌に載ってた縛り方をされた人間がぶら下げられ夜風に揺れていた。左端は制服姿のシノブだ。気絶してる。右端は、バイクチームV6の岡田SP(スペルマン)だった。下半身裸でうぅおうぉおさぉわぁになっへおほろぅと歌ってる。涙と鼻水と涎で自慢の顔面ボロボロ、あーオシッコまでじょろじょろ漏らし出しちゃった。憐れスペルマン。

 「あのさージョーカー」
 「うぃ」
 「右の奴友達じゃないんだけど」
 「ギャハハハハ。最高だぁレィディ。ジョーカーにジョークかよ。最高だよレィディ。あいつのケツの穴にダイナマイト突っ込むのに俺様がどれだけ苦労したと思うんだ。えっ?えっ?」
シノブは口に、岡田スペルマンはお尻にそれぞれダイナマイトが突き刺さっていた。岡田スペルマンの歌が止まった。
 「生きていたかったらドンスタッミュージックだと言ったろう!小便野郎があ」ジョーカーはぶちギレて叫び、また悲しげな顔をして早口で囁いた。「起爆装置が起動した。爆発する爆発するぜ。どかーんとド派手になぁ。花火見物と洒落込もうぜレィディ。君といた夏は遠い夢のよーうー。空に消えてった打ち上げ花火ー。花火。ビビッビ。花火知ってるだろう。HA-NA-BI。レイディは映画みないのか?キタノの古い映画。いい映画だぜHA-NA-BI。生き抜けたら観るといいぜ。その昔この国じゃ花火があがるたびにタマヤーと声をあげたらしいぜ。アイドルもお相撲さんも皆さん大好きなタイマー!じゃないぜ。タマヤー!だぜ。タマヤー!」
「なぬー!」
「俺様は最強に優しい。時間を残してある。30秒の大盤振る舞い。レィディレィディレーィディならどちらから助ける?タマヤー!」

 ジョーカーは悲しげな顔で「大事なシノブぅ君!かあ」と裏声で言い、それから笑顔で「それともファック岡田かあ!ギャハハハハ!」と叫んだ。「どちらを選ぶのはレィディお前…」言い終える前に私はフェンダーで思い切りジョーカーの右側頭部をぶん殴りグボッと鈍い音を道連れに頭蓋骨を割った。それから大仏魂に掛けられた梯子をガシガシ登った。ガシガシ。うわーこれじゃ間に合わないよ。どーしよー!ピキーン。「あなたなら出来るわ」女の子の声がした。「三人あわせてパフュームです!」また違う女の子の声。私は不思議と跳べる気がした。跳べる。ウリリリリー!梯子の途中からヒゲの左側に向かって飛び出した。跳べた!パパパパッとパラパラ漫画みたいに一メートルごとに空間を移動してる感じ。瞬間移動ていうのこれ?

 ヒゲの左端に降り立った私はシノブをぶら下げているロープを手繰り寄せダイナマイトを口から抜き取り逃げようとしているジョーカーに向けて投げ付けた。ジョーカーの背中と岡田スペルマンのアナルで同時に真っ白な閃光が走った。スペルマンの身体はアナルから噴射する爆風でロープを引きちぎりミサイルのようになって地面に首から突き刺さった。大仏魂の付近でオレンジ色の2つの火球が膨らみ私はシノブをだきしめて衝撃波から護った。私はこの光景を見たことがある気がした。またさっきの女の子たちの声が私の耳元で囁く。「ようやくお目覚めね」「おはよう」私は振り返ったけれど初秋の風が吹いているだけだった。

 ジョーカーの遺体は見つからなかった。カンチからの電話で羽鳥の失踪を知ったのは、岡田スペルマンのアナルが学校での噂通り蛇兄さんによる調教で鍛えに鍛え抜かれて獲得した鋼鉄の強靭さをもってダイナマイトの爆発に耐え難きを耐え忍び難きを忍んで火傷で済んでしまったのを目にしたときだ。
「あ、あれ?」シノブが目覚める。
「おはよシノブ。ちょっとこいつを地面から引き抜くの手伝って」
私にはよくわからない何か不思議な力がある。何かが私の胸のなかでキュンキュンと鳴っているのが私には聞こえた。

闇夜(やみよる)23

Come writers and critics who prophesize with your pen
And keep your eyes wide the chance won't come again
And don't speak too soon for the wheel's still in spin
And there's no tellin' who that it's namin'
For the loser now will be later to win
For the times they are a-changin'
(Bob Dylan - The Times They Are A-Changin')

 秋田県知事、加藤鷹による「北日本連邦」の正式な独立宣言、そして「南日本政府」に対する宣戦布告を受けての各国の反応は冷ややかなものだった。まず、アメリカ合衆国――「同盟国日本の内部に国家を自称するテロリストが出現したことはまことに由々しき自体である!」――南米移民系アメリカ人初の大統領、クセノフォン・ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ビエイラはテレビ演説で叫び、横須賀・沖縄・佐世保などに駐留する空海軍の主戦力をすぐさま北へ向かわせた(しかし、その戦力には三沢飛行場に待機していたはずの26機の戦闘機はは含まれていない。三沢基地は“原因不明のトラブル”によって、数日前から音信普通になっている)。そして、中華民主主義連邦――「北日本連邦などという得体の知れない国家を承認することは不可能だ。我々は過去に受けた屈辱を忘れてはいない」――魔境革命戦争以後、混乱を極めた中国を治め続けた老獪なカリスマ、房祖名はそう呟き、隣の島国で起こった内乱に対して黙殺を決め込もうとした(しかし、密かに鳥取港に向けてスパイを乗せた小型船が上海から出航している)。
 さて、EUは?――そこにはロシアも含まれている。ユーラシア大陸の西部と北の大部分を占める大中小国の国々による連合による経済圏は、いまやセルゲイ・オマンコーノフの掌中といっても良い。彼の影響は絶大だ。
 しかし……EUもまたアメリカ、中国という2大国同様、北日本連邦の独立に承認を与えない――世界の3大勢力が足並みを揃えるのを確認し、インド、ブラジルはおろか、国際連合に所属するすべての国々が北日本連邦の独立に非難の声を浴びせ、南日本政府に対する支援の意思を示した。アフリカに散らばった無数の黒人国家も、カリブ海に浮かぶ小国も、オーストラリアも、東南アジアの国々も……。北日本連邦は孤立した。そして、この動乱も1週間、いや3日も経たずして収束されるだろう。世界はそう予想する。


 独立宣言より50分後、栃木県上空を厚木から出発した米軍の戦闘機F‐32“タイローン”13機が超音速で飛行している。そして、その編隊を追従するようにして重爆撃機B‐21S“スロースロップ”4機。これらはアメリカ合衆国が世界に誇る戦術/戦略兵器のトップ・ブランド、ヨーヨーダイン社がここ数年に開発した最新にして最強の飛行部隊だった。搭載できるだけの火気を最大限に積んだ各機のパイロットたちは、無謀なテロリストたち(つまり7人の知事たちのことだ)を殲滅せんと高度3万メートルの空の上でいきり立っていた。
「こちら先頭の“マイルス”。聞こえるか、“ハービー”?あと3分で福島県境を跨いでクソ北日本の領空内だ」
「こちら“ハービー”。無線の感度はバッチリだ、クソ!サンフランシスコの浜辺で引っ掛けたヒッピー女みたいに濡れ濡れだぜ」
「“トニー”から“ハービー”へ。まったく有事だってのにいい気なもんだ。ウカウカしてると自慢のシロモノもろとも、このクソ山んなかに落っこちて燃えちまうぜ?」
「こちら“ロン”。堅いこと良いなさんなって。ここいらには対空配備なんかまったくないんだろう?楽勝だぜ。早いとこドンパチやって、このカワイコちゃんのお腹を空っぽにさせちまおうぜ。なぁ、“ウェイン”」
「…………」
 “ウェイン”からの返答はない。
「こちら“ロン”。“ウェイン”、退屈して居眠りしてやがるのか?」
 “ロン”に乗り組んだパイロットは、通信スイッチをオンにしたまま、右後方にピッタリと張り付きながら飛行する“ウェイン”へと呼びかける。しかし、そこで“ロン”のパイロットは気づいた。南日本から北日本の領空へと戦闘機13機からなる編隊が侵入しようとした瞬間に、突然あらゆる通信機器が不通になってしまったことに。「なんだ?ついさっきまで感度バッチリだったってのに。どうしたんだ?」。隣り合わせに飛んでいた“ハービー”と“トニー”のパイロットは不思議に思いながら、目視可能なコックピットに向けて互いにハンドサインを送りあった――「ムセンキ チョウシ ワルイ」。
 編隊のどのパイロットも無線の異常に気がついていた。しかし、編隊のリーダー機“マイルス”がそれでも尚、作戦を続行させ北へと飛び続けたのは離陸前に伝えられたミッションがあまりにも易しかったからだ――「相手側の戦力は未知数だが、おそらくこちらの比ではない。もし、敵に戦闘機があったとしても三沢にあるポンコツと、自衛隊の不良戦闘機ばかりで相手にならんだろう」と厚木飛行場の第3作戦会議室で司令官が言うのを“マイルス”のパイロット、ウィリアム・バクスター中尉は聞いた。進路はちょうど東北新幹線のレールを沿うようにして、まず福島の市街を破壊したのちに、1機の爆撃機と3機の戦闘機が本隊を分離(分隊日本海沿岸の街を破壊する)、本隊はそのまま北へと向い、札幌を焼け野原にした後に帰還……あとはノロマな日本の自衛隊と米陸軍が北上するのを横須賀で待っているだけ……無線など必要ない……俺たちには経験と、鉄の軍規がある……それさえあれば楽勝……のはずだった。
 編隊はとっくに白河を過ぎ、郡山を過ぎ……予定通り最初の攻撃ポイントである福島市街が見えるところまで高度を下げていた。しかし、そこでバクスター中尉は、ある事実に気がつく――これまで自分の機の後ろを飛び続けていたはずの僚機がすべて姿を消しているのだ――「何が起きたんだ?」。パイロットは困惑する。


 何が起きたのか。


 12機の“ハービー”も“ウェイン”も“ロン”も“トニー”を含む最新鋭の戦闘機、そして4機の爆撃機は、郡山を過ぎたあたり、ちょうどかつて安達郡と呼ばれた太陽光発電所プラント近くで次々と墜落していた――しかし、超音速で飛ぶバクスター中尉の耳には墜落の爆音と衝撃は届かない。墜落する直前、彼らの機に起こったのは機体をコントロールする電子機器の異常だった。ある機の機銃は、パイロットの意思とは無関係に火を噴き、その手前を飛んでいた仲間を打ち落とす。爆撃機の内部では対地ミサイルが自爆し、地上に多くの鉄屑とウェルダンに焼かれた少々の肉片を撒き散らした。
 困惑しているあいだに“マイルス”のパイロットは、空中へと身を投げだされる――非常用脱出装置が唐突に起動したのだ。そして、座席のシートベルトに締め付けられたままバクスター中尉は3000メートル下の地面へと叩きつけられ、絶命する。座席から飛び出すはずのパラシュートは……作動しない……。
 水風船が破裂したあとのように飛散した肉片と血液のまわりに野犬が群がり、米軍の最新鋭戦闘機乗りの骸を始末しようとしていた。


 これが美嚢猛(みのうたけし)と府鋤真治(ふすきしんじ)というふたりの科学者によって開発された「美嚢・府鋤粒子」の威力だった。北日本の領内に散布されたこの粒子よって、あらゆる電子機器は無効化され、暴走する――数年前、東北大学大学院新粒子研究所から謎の失踪を遂げたふたりの天才科学者たちによって開発されたこの恐るべき粒子によって、100年近く続いていたコンピューター制御による現代戦の歴史は終焉したのである。そこはイージス艦から発射され衛星によって誘導される対地ミサイルも、高性能レーダーも、自動で着弾地点を計測してくれるシステムを備えたハイテク戦車も無意味になった世界――その後、1週間に渡って自衛隊と米軍の合同部隊は北日本領内へと果敢に侵入作戦を続けるものも、技術と情報が無効化された世界において彼らはなんの実力も発揮できず、死ぬ。自衛隊/米軍の上層部が、時代の変革に気がついたとき、すでに極東に終結した軍事力のおよそ3割は消失していた。


 しかし、終焉があれば、また新たなる始まりもある――それまで失われてきた白兵戦の復活である。


 北日本にいる男たちが狂喜する――“マイク”奪取作戦に参加した「魔岩窟拳」の僧侶たちだけではない。そこには世界中から血と暴力を求めてやってきた禍々しい男たちが終結している。犬山組系広域暴力団「影虎組」の小指のない男たちの目がギラギラと輝き、南日本政府に球団を解散させられて以降、地上げ屋として糊口をしのいできた「野村組」の男たちの背中に彫られた金色の鷹が肌に浮かんだ期待の汗で湿りいやらしく光る。彼らは元ロシア軍唯一の女准将、アナ=ルの名の下に組織化され、より一層凶暴化する。
 飢えた獣たちは、負けない。
 そして、その獣たちのなかには、ブルース・ウェインという名のアメリカ人がひとり紛れ込んでいる。

闇夜(やみよる)22

 ピンポーン。ピンポピンポピンポーン。ああ、ああ、連打しなくてもいいよ。今、開けるから。ガチャっと重いドアを開ける。父さんが訪問販売でだまされて買った「原爆の炎を防ぐ鋼鉄の玄関ドア」を開ける。彼女は本当にそこにいたのだった。僕を、僕を救ってくれるために。


−2時間前−
「あーちゃんが、キクリン探せってよろしくー。」
 カンチからのメールだった。あーちゃんが直接僕に連絡してくることはない。いつもカンチ経由。なんでだろう。いわゆるツンデレってやつ??女の子って不思議だな。カンチに適当に返事を打って、僕は深いため息をつく。
 また電脳メガネが鳴り始める。爆音が脳から脊髄まで響き渡りハートをこがす。

Boy meets Girl それぞれのあふれる想いに きらめきと
瞬間を見つめてる 星ふる夜の出会いがあるように

 TRFが鳴ったので、メールじゃなくて通話だ。少し期待をしながらウィンドウを開くと「非通知」の3文字。いったい誰だろう。まだ胸の期待はおさまらない。ロビン、青春生きてます。
「は、はい、羽鳥です。」
「ウィ〜。オレオレ。いやー、こないだはロビン突然帰ってまいっちんグ〜
「……誰?」
「ナニナニ。ロビンまた〜。とぼけちんグ〜。あ、とぼけてるのって意味ね?」
 なにかわからないけど、嫌な予感がしたので僕はためらわず電話を切った。

Boy meets Girl それぞれのあふれる想いに きらめきと
瞬間を見つめてる 星ふる夜の出会いがあるように

 間髪入れずにTRFが鳴り出す。一応出る。
「ちょwwwwwwwwwマジwwwwww何切ってwwwwwウケるwwwwwwwオレオレ、バットマンwwwwww」
「や、バットマン死んだし」
「死なないの死なないのそれがサバイビング〜。あのあと復活したの。ホップステップクライスティング〜
「クライスティング?」
「バカwwwwロビンwwwバカwwwwキリストのように復活したってこと!ユーノー?」
「…あ、なんでもいいです。あなたがバットマンでも違う人でもなんでもいいです。僕はロビンもうしませんから」
「あー!てめ何言ってんだよ、こら!!ぶっ殺すぞ!!!…なんちゃって〜」
「もう切りますね」
「あ〜ごめんごめんごめん。まあ聞きなさい。あのね、ロビンはロビンマスクなの」
「え?」
「メガネじゃなくって、ロビンマスクをかぶってほしいの」
「えーと、キン肉マンに出てくるアレですか?」
「そうね、だいたいね。デザイン的にはね」
「それをかぶるとどうなるんですか?」
「ロビン食いついてキター!でも、かぶるんじゃないの〜。ねえねえ、ロビンさー。ヒゲ、もう剃れないでしょう」
 …そーなのだ!最近、何かヒゲが濃くなって朝に剃っても学校から帰るころには、顔の下半分が真っ青のジョリジョリになっていたのだ。そして、今朝はなんと起きたらむっちゃ太いヒゲが生えていて、もはや僕のブラウンメンズシェーバーの刃まで、はじいてしまうのだった。だから今日は学校を休んだのだった。
「ちょっとロビン顔さわってみ!サワリング〜
 さわる。モジャる。さわる。モジャる。さわる。モジャる。うわわわわ、なんだこれは。僕の顔中が毛だらけだ。顔全体から縮れ毛が生えている。顔が毛の中に埋まってしまっている。そんな。いつの間に。これじゃ表へ出れない!!
「ふへへへへへへへへ。ロビンもう引き返せないよ。ロビンマスクにならないと、お前は一生顔面陰毛マンだよ。マジウケるよwwwwwオレはそれでもいいよwwwwプーwwwwwギザワロスwwwwwwwwwwwwwwwwww」
「おい、ふざけんなよ!オレを元に戻せ」
「悪いけど、元には戻れないですぅ。ロビンの選択肢は二つだよ。ひとつは、そのままゴリラになること。もうひとつは、その毛を硬化させてマスクマンに変化すること。お前のヒゲが、ロビンマスクになるいんグ〜
 ダメだ。何言ってるのかわからない。助けてくれ。毛人間にはなりたくない。
「わかった。ロビンマスクになるから、顔を戻してくれ!」
「顔は戻らない。顔面陰毛マンか、毛が硬化したロビンマスクになるかだ。まあ聞くまでもないよ選ぶまでもないよ。お前はロビンマスクになるしかねーんだよwwwwwwww」
「そんな…」
「くっくっく。ロビンマスクになるには儀式(イニシエーション)が必要だ。今から菊地凛子がそっちに向かうよ。おとなしく待てよ。くっくっく」
「助けて…」
ぶちっ。


 2時間して僕の家にキクリンが居た。彼女は冷たい目線で僕を見下ろしていた。僕は2階の自分の部屋に彼女を案内しようとしたけど、自分の毛ですっころんで階段から落ちたのだった。僕の全身から毛がどんどん伸び続けていた。助けてくれ。助けてくれ。口にまで毛が入ってきて、うまくしゃべれない。「あうあうあううううああ」
「哀れね。これから、あなたは私たちと同じ運命を生きるの。キルドレとして、あなたも私も、もう死ぬことはできない。それはあの男も同じ。私の父も同じ。ジョーカーもね。私だって人並みに、働いて恋をして家族を作って暮らしてみたかった。でも、私たちは奪われた。あなたも、いま奪われようとしている」
 キクリンは暗い目をしていた。まるで、僕がこれまで見たことも想像したこともないような深い闇の底から外界を覗き込んでいるようだった。僕は恐かった。僕がどうなったのか。彼女は何なのか。子供のころ、海でおぼれかけた。あのときと同じ圧倒的な恐怖。自分の存在が消えてなくなる。僕はただ…
「ねえ?死にたい?今なら殺してあげるわよ。生きていても、きっと後悔するわ。あのとき、死ねばよかった。なんで生き続けなければいけないのか。あなたもそう思う。ねえ?それでも生きたい?あなたは全身を脱げないヨロイに包まれて、バットマンのために戦い続ける。あなたは文字通り誰にもさわることはできない。硬い硬いヨロイに阻まれて。それでも生きたい?」
「あうあうあうあううううげぇえおぇ」
 生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きて、人間としてあーちゃんに会いたい。あーちゃん。あーちゃん。お母さん。お母さん。お母さん。助けて。助けて。お母さん。助けてください。
「くっくっく。そう。わかった」
 それはバットマンの笑いにそっくりだった。僕はいつの間にか大きな人毛の球体になっていた。黒く、うごめく、大きな大きな僕の体から伸びた毛に作られた球。視界は閉ざされていた。でも、キクリンのことははっきり見えた。キクリンの声だけははっきり聞こえた。
「はじめりんグ〜
 キクリンはゆっくりネクタイを外し、シャツを脱いだ。キクリンの肌は女子高生のみずみずしさを讃えながらも、どこか死んでいた。僕にはわかった。何百年も生きる中で、染み込んだ人の欲望や心の闇がキクリンの体に深い憂いを残していたのだ。それは、悲しく穢れていた。キクリンはスカートを下ろした。ノーパンだった。陰毛はもちろん、ボーボー。

闇夜(やみよる)21

 ニコラスが死んだ次の日からキクリンは何度めかの登校拒否になった。たくさん尋ねたいこともあったので、陰毛はボーボーと繁っているくせにケータイを持っていないキクリンのアパートを何回か訪ねたけれどいつも留守だった。こないだ市内で暴れ回ってた変態超人たちも、いかにも雑魚っぽいロビンだかロビンマスクだかバラクーダだか以外にはめっきり目撃されなくなって落ち着いちゃった。たぶん鳥取の夏の暑さは全身タイツにはキツいんだと思う。

 エロ店長のニコラスが死んで慢性的なセクハラからは解放されたけれど私はずどーんとどっぷり落ち込んでいた。そんな私を慰めるようにカンチと羽鳥のバカコンビが慣れなれしく私に声を掛けてきた。

 「俺たちとキャッチボールやろうぜ!」
 「やろうやろう!」

 この二人いつの間にこんなに親しくなったんだろう。羽鳥なんてスネオっぽい態度になってるし。なーんて思いつつも「いいよーやることないからー」とボランティア精神をフル稼働して承諾。ジオフロントにある校舎から音速エレベーターでグワーッと地上にある野球場に出た。「道具はこれね」と言って羽鳥が手にしたソフマップの袋の中身をホームベースの上にばらまいた。キャッチャーミット2コと軟式ボール六個、金属バット2本。

 「なんでキャッチャーミットなんだよロビ…」
 「わー!わー!スミマセン」

 バカ二人のアホコントを聞いているだけでなにか悪い病気になりそうなので私は途中から聞かなかった。空は青々としていて日本海からはにょきにょきと真っ白な入道雲が生えていた。ニコラスは最期、湿った目で鳥取は色に溢れていると言い残した。私もそう思う。でもガススタ店長のニコラスがこの街を守るために死ぬなんて理不尽だ。ニコラスが戦士?死に場所を探していた?わけわかんない。とりあえずキクリンを探し出さないとダメだこりゃ。

 カンチが投げたボールを、私が掛け声付一本足打法でカキーンと外野までかっ飛ばし、キャッチャーミットを持った羽鳥が犬のようにライトからレフト、レフトからライトへと息を切らして追いかける。

 「行くぞー!」ピシュ。
 「ナボナッ!」カッキーン。
 「うわーん」
 「次行くぞー!」ピシュ。
 「ナボナッ!」カッキーン。
 「うそーん」

 そのうち羽鳥がセンターのポジションで倒れたので見ていないふりをして私とカンチはガリガリ君を食べながら錆びたベンチで休憩した。カンチが話を始めたのは私が羽鳥の分のガリガリ君を半分くらいまで食べたときだ。

 「俺たちは本物の野球がない世界にいるんだ…」
 「ホエ。どしたの急に?」
 「昔、野球にもプロがあったの知ってるか?」
 「プロ?野球で?この国に?いつくらいのこと?プロのスポーツなんてボーリングしかないじゃん」
 「まだこの国と東北が別れる前だ。札幌、仙台、千葉、東京、横浜、名古屋、大阪、鳥取、広島、福岡。日本を代表する都市にはプロ野球があったんだ」
 「ウソー!全然知らなかった」
 「嘘じゃないよ。戦争前のことだから皆忘れているだけ、違うな…」

 カンチは少し戸惑う素振りを見せて話を切り、一呼吸置いてから続けた。私はガリガリ君を食べ終えた。

 「プロ野球は消されたんだ。東北が独立を宣言するずっと前、常勝の天才野村カツノリに率いられた東北楽天イーグルスは他の球団を叩きのめしたらしい。それこそメッタメタにやっつけた。それが東北の人間のコンプレックスを払拭して例の内戦の土壌になった。それで政治家はプロ野球を日本から、歴史から消した。俺は野球を取り戻すために…いやゴメンつまらない話して」
 「野球楽しいのにね。どーして消しちゃうんだろ…」
 「野球は最高だよ。政治家が馬鹿なだけなんだ、たぶん。さて羽鳥を起こしてくるか…あれ?」

 異変に気付いたカンチが羽鳥のいる外野から内野スタンドへ視線を送る。羽鳥は声が出ないみたいでぐるぐる腕を振り回し内野スタンドのファースト側に私の注意を向けようとしている。内野スタンドでは隣のクラスの嫌われ軟派野郎の岡田SPと他の学校の和服を着た子が日傘で相合傘をしていた。岡田は6気筒をこよなく愛するバイクチーム「V6」のパシリ。岡田のあだ名「SP」は「スペルマン」の略で由来は「すぐ射精するから」らしいけど私は興味ないのでよく知らない。女の子のほうは「なかなかカワイイ」ってレベルで私よりちょっと落ちるかな正直言って申し訳ないけどスマヌけど。

 私はなんか遊んでいるところを見物されていたのがムカムカしてきた。ナボナとか叫んでメチャメチャ恥ずかしい。あ、岡田笑ってる。こっち指さして笑ってる。あーもう無理。私は足元に転がっているボールを掴んで自慢の鉄腕で内野スタンドに剛球をお見舞いする。完璧なレーザービームが岡田の顔面に向かって飛んでいく。スペルマン岡田は日傘を投げ捨てて上体を向って左にスウェイしてかわそうとする。哀れスペルマン岡田。私の投げた軟式ボールはスライダー、岡田の逃げた方向にグイっと曲がって顔面にめり込んだ。岡田は泡を吹いて失神&失禁。ゴロゴロと吐しゃ物とオシッコにまみれながら内野スタンドを転げ落ちて金網にめり込んだ。和服ガールはいつのまにかいなくなっていた。

 回復した羽鳥がホームベースにいる私たちのところに戻ってきた。やりすぎじゃないかなとか言っているのを私は軽く無視する。そだ、このコンビにキクリン探しを手伝ってもらおう。遊びに付き合ってあげたんだから不満は言わせない。そうしよー。きーめた。野球場から帰るときに、この秋の文化祭が安全上の理由から学校じゃなくてあのセンス最悪「大仏魂」がある鳥取城址で行われるって羽鳥から教えてもらった。学校の方が安全だと思うけど本当に学校の考えていることはよくわからない。

 ん?「ちょっとタイム。鳥取にもあったっていったよね?プロ野球
 「あったよ。鳥取はてなシナモンズ。最後の監督はGG佐藤。キモチいいくらいの固い守備と勝負弱い打撃で引き分けを狙うチームだったらしい」
 「随分と地味ね」

 シノブが何者かに誘拐されたのはこの平和な日の夜のことだ。シノブからの「誘拐された。ふえーん」メールを受信してすぐに私は行動を開始する。部屋から人間大砲のように発射された私は階段をダダダと駆け降りる。駆け降りるスピードが速くなった気がするけどたぶん錯覚だよね。うん。また変なことが起こるのかなあ。キクリン早く出てきてよ。もう。最近、パパは晩御飯のときまでチャゲアスを流しているし、もう最悪。私はフェンダーを担いで家を飛び出した。満月。「湿った目をした戦士ニコラス」の魂が乗り移った原付が月に吠える。ぶぶぶっぶぶぶ。

闇夜(やみよる)20

 全世界に向けて「北日本連邦」の正式な独立宣言をおこなうはずのテレビ放送は予告していたとおりの時間に始められた。時刻は午後12時ちょうど。それはちょうど前日に電波ジャックによる独立宣言がおこなわれたのと同時刻だった。
 最初に画面へと映し出されたのは宮城県にあった古ぼけた野球場である。これはあるプロ野球球団のホームグラウンドとして使用されていたものだったのだが、老朽化しひび割れたコンクリートや手入れのされていない芝(というか、雑草だらけの野原のような状態だ)からはかつて大勢の観客を楽しませていた輝かしい時代の面影は微塵も感じられなかった。しかし、カメラはその廃墟のような野球場を埋め尽くさんばかりに集まった人々の姿を映し出す。観客席にも、フィールドのなかにも人、人、人、人の群れ。彼らはこの演説のために東北7県、そして北海道からわざわざ集まっていた。圧倒するような黒山の人だかりに、放送を観ていた人々は眩暈を興しそうだった。
 その眩暈は全世界に伝染していった。放送はインターネットや衛星放送を通じて全世界に届けられていたのだ。極東の島国で今何が起こっているのか。これに全世界が注目している。しかし、現実的な危機感はない。彼らはあくまで観客であり、多くの人々が口に含んだジャンクフードをダイエットコーラで胃に流し込みながら画面を見つめていた。そして気が向くと彼らはオンライン上のBBSにアクセスし、一言乾いたコメントを書き残すのだ――「テンションあがってきた」などと。しかし、それらは彼らの本当の気持ちでもなんでもない。単なる儀礼的行為なのであり、月曜日の次が火曜日であるという事実にも劣る価値のない言葉が津波のような勢いで書き込まれていった。
 さて、野球場に集まった群衆であるが、彼らのテンションは海外から状況を観察する人々のそれとは比べようがないほど高まっていた。7人の県知事たちはまだ野球場に姿を見せていない。群集は彼らの姿が現れるのを今か今かと待ち望んでいた――しかし、不気味なほど球場は静まり返っている。


「知事たちはどこだ!」
 突然、球場のどこかから怒号が聞こえた(放送用マイクもその声を捉えている。そして不気味な静寂は一瞬で熱狂の時へと変化した――「そうだ!」、「はやく知事をだせ!」、「北日本万歳!」。可燃性のガスに火がついたようにして叫びは広がり、人々の声が球場全体を包み込む。もはやいつ暴動がおきてもおかしくない状態だった。
 その日、球場には5万人もの人々が集まったと言われる。5万の声は次第にまとまりを持ち始め、いつしか北に位置した土地から順にその県名を叫んでいくコールになっていた。北海道……秋田……岩手……宮城……山形……福島……。繰返されるごとに5万の声の結びつきは強固になりはじめ、音量を高めていく。もはや放送用マイクでは捉えることのできないほどの大音量となった肉声によるクラスターは、画面の前に座った人々の耳にはホワイトノイズとしてしか認識できない。
 次の瞬間、カメラのレンズは空中へと向けられた。そこで画面は群集が子虫のよう蠢き続ける球場の風景から、雲ひとつない晴れ模様の青空へと切り替わる。カメラは空中を飛ぶ一機のヘリの姿を捉えている。青の背景に浮かんだ迷彩色のヘリの姿を。
 県名の名を叫び続ける群衆も次第に上空のヘリに気がつきはじめ、県名コールは乱れを見せた。肉声のクラスターは熱帯雨林のジャングルのように入り乱れた歓声に変っていく――しかし、そうだとしても画面の前に座った人々には依然として耳をつんざくようなホワイトノイズでしかなかったのだが。
 ヘリは徐々に高度を下げ始めていた。カメラはその様子をじっと捉えている。ヘリはフィールドのまんなか、ちょうど2塁ベースのあたりに着陸しそうだった。そのあたりにいた人々はローターが巻き起こす風圧が強くなっていくのを感じ、ヘリに押しつぶされないよう着陸のための場所を空け始めた――だが、5万の人間が叫ぶ歓声の勢いは弱まらない。


「音楽が聞こえる……なんだろう」
 そのとき、5万人の中のうち良い耳を持った1人が歓声に混じる音楽の存在に気がついた――1人の気づきは波状的に群集へと広がっていく。その音楽はヘリに備え付けられた野外コンサート用の巨大なPAから流されていた。5万人の人々は自然とその音楽に耳をすませるようになっていく。歓声は弱まっていく。そして、5万人の声とスピーカーから放たれる音の大きさが等しくなった瞬間に、音楽の全貌が明らかになった。
「Also sprach Zarathustra!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 ドイツ語使用者のために用意されたBBSに一瞬で300件も同じ内容の書き込みがなされる。それは音楽が19世紀末に書かれた交響詩ツァラトゥストラかく語りき》であることに気がついたドイツ語使用者たちによる条件反射的な反応だった。地鳴りのように響くコントラファゴットとオルガンの低音、それから通常の倍近くの人数が用意された金管楽器の咆哮によってなされるその「序奏」が、全世界の人々の耳に届く。フィールドに集まった人々に、もはや声をあげるものは誰もいない。皆、陶酔し切った目で宙に浮かぶヘリの姿を眺めていた――なかには涙を流しながら天を仰ぐようにしているものもいたと言う。混沌とした音響模様から静寂への転身は、あたかも群集が集団催眠にかけられているような光景だった。


 そして、ヘリは漸く地上に降り立つ。ドアが勢いよく開けられ、7人の知事たちの姿が群集の前に、そして中継視聴をする世界中の人々の前に表れた。先頭に立っていたのは、秋田県知事、加藤鷹。加藤は残りの6人がヘリを降り、自らの後ろに横一列で立っているのを確認すると、マイクを握り話し始めた――それこそ、世界史に残る正式な北日本連邦の独立宣言がそのとき始められたのである!


「昨日我々は函館沖に浮かぶメタンハイドレート採掘パイプを奪取した。しかし、これは勝利を意味するのか?否!始まりなのだ!我々が離脱した日本国――便宜的にはここでは南日本と呼んでおこう――に比べ、我らが北日本連邦の国力は30分の1以下である。荒廃した農業地、減少し続ける人口、上昇し続ける平均年齢……。それらが北日本の弱さをおのずと物語っている。にもかかわらず我々はこの闘争における勝利を確信している!
 何故か?
 諸君!我ら北日本連邦の目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
 我々は日本の中心である東京やその周辺に豊かな土壌や資産や生活を簒奪され、弱体化させられた、いわば難民である!そして、一握りのエリートと金持ちらが日本国を支配し、至福を肥やすために費やしてきた年月の間、東北に住む我々が人間の尊厳を要求して何度踏みにじられたか。
 北日本連邦の掲げる人民の自由と幸福のための戦いを神が見捨てるはずはない。
 新しい時代の覇権を選ばれた国民が得るは、歴史の必然である。ならば、我らは襟を正し、これからやってくるであろう南日本からの妨害を打開しなければならぬ。
 我々は冬の過酷な寒さと夏のもだえるような暑さを生活の場としながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。かつて、柳田國男は日本における伝統の諸々は北日本の民たる我々から始まると言った。しかしながら南日本の腐敗した畜生共は、自分たちが全日本のの支配権を有すると増長し我々から数々のものを奪っていった。
 諸君の父も、子もその畜生共の無思慮な暴虐の前に死んでいったのだ!この悲しみも怒りも忘れてはならない!我々は今後、この怒りを結集し、南日本政府に叩きつけて、初めて真の自由を得ることができる。この自由利こそ、虐殺された我々の祖先全てへの最大の慰めとなる。
 北日本に住む住民たちよ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ!我らが北日本連邦国民よ!我々、北日本連邦の民こそ選ばれた人間であることを忘れないでほしいのだ。
 我々はここに北日本連邦の独立を全世界に向けて宣言する!そしてこれは南日本の腐った人間どもに向けて叩きつける宣戦布告でもある!我々、勇気ある東北の民は南日本からの圧力に決して屈しない!」


 加藤が握ったマイクを離した瞬間に、群集から歓喜の声が爆発する。球場の内部に再び熱狂の時がやってくる。それは以前のものとは比べ物がない喜びと期待に満ちた気持ちの暴走だ。5万の群集がその場で踊り出し、そのエネルギーは湿度と温度を2度ずつあげる。球場の観客席で、朽ちかけたグラスファイバー製の椅子を無理やりに引きちぎって、天空へと放り投げる姿をカメラは映していた。しかし、人々の顔には暴力や怒りの表情はまったく浮かんでいない。


 宣言は終わった。「テンションあがってきた」。次の瞬間、世界中の様々な言語によって書かれたBBS上に同じコメントが溢れていく――画面の前に座る人々は、まだ観客気分から離れられないでいたのだ。しかし一体、誰が予想できよう?ある日、突然、世界が変ってしまうことなどを。

闇夜(やみよる)19

 ユイファは、今日が自分の40歳の誕生日であることに夕飯の支度をしながら気づいた。ふと、自分の半生を振り返る。日本に来てから20年、何もなかった。ただ我慢をするだけの味気のない日々だった。ユイファは深いため息を吐いた。最近は何もやる気がしないし、いつも心の中は悲しみでいっぱいだ。自分がそんな状態であることをユイファは初めて自覚した。今日やることを片付けなければ。洗濯物を取り込み、息子が帰るまでに夕飯を作り終える。まずはそれだけだ。それだけを、まずは…。


 ちょうどロンドンオリンピック開催から東京オリンピック開催までの4年間。中国では後に魔境革命戦争と呼ばれる大きな内乱があった。結果として、いくつかの省や県が中華人民共和国からの独立を勝ち取ったが、旧雲南省中部に位置する小国「ジッタリンジン」での人民たちの生活は極貧の中にあった。
 福島県を拠点とする犬山組系広域暴力団「影虎組」は国際結婚仲介業者「GLAY」を組織し、ジッタリンジン国の若い娘と結婚相手を探す(主に中年の)日本人男性との結婚を斡旋する商売を始めた。事実上の身売りであり、実態は奴隷売買と言ってもよかったが、それでもユイファたちジッタリンジン国の若い娘たちは「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見て日本へとやってきた。簡単にだまされ、娘を売り払った親たちは、それでも娘からの仕送りに期待した。そのこともユイファたちへのストレスとなった。GLAYの男たちが、嫁ぐ前に日本語を教えてくれると言ってくれたが嘘だった。なれない国で言葉もわからず、脂ぎった不細工な中年男といじけた性格をした神経質な姑との身振り手振りでしか意思疎通を量れない生活が始まった。
 ユイファと同じ便でやってきたレイラが鳥取県庁のビルから飛び降り自殺をしたのは、彼女たちが日本に来て半年後のことだった。レイラは夫から毎日殴られることを泣きながらユイファに訴えていた。レイラに限らず、ジッタリンジン妻に対する日本人夫の暴力はでありふれたことであり、深刻なことでもあった。日本人夫は彼女たちを同等の人格とみなさなかった。先進国の人間であるという驕りと買った女に対する所有欲からくる未熟な優越感のため、その暴力は多くの場合、悲惨を極めた。レイラの葬式で会った同じジッタリンジン妻の先輩であるチョイは、夫からアバラを折られたことがあると、ユイファに告げた。また、ユイファと同様に姑からのいじめに悩む女たちも多くいた。
 ユイファはというと、他人とは満足に目を見て話すことすらできない夫が、自分の前では威張り散らし、異常な夜の生活の強要をしてくる事実に、いつしか世界に対して心を閉ざすようになった。


 だが、息子が生まれた。息子の存在はユイファにとって希望だった。十年あまり、幸せを感じる瞬間も時にはあった。しかし、息子は変わってしまった。ユイファは教育方針に口を挟むことは許されなかった。夫と死んだ姑に甘やかされて育った息子は、いつか夫と同様にユイファを蔑むようになった。息子はユイファを罵倒し、物を壊し、暴力を振るった。夫は家に寄り付こうとはしなくなった。
 バタン!乱暴にドアが閉まる音がして、ユイファは驚きで飛び上がった。息子が帰ってきた。少しでも心を開いてくれるように優しく接しなければ…
「おかえり…たー君…」
「うるせえぞ!ババア!話しかけんな!!」
「…ごめんなさい」
「クソが!!どいつもこいつもクソったれだ!!」
 息子はテーブルに並べられた夕飯を手で乱暴に払い落とした。ガチャン!と食器が割れて、マーボー豆腐とご飯とが床に散乱する。もう悲しいとも思わない。ただ深い暗闇がユイファの心の中で濃くなっていく。どうすればいいのか。どうすれば。祖国のお父さんお母さん。私はどうしたらいいの。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね、たー君」
「うるせえ!たー君じゃねえ!!俺のことはロビンって呼べって言っただろう!!」
 息子が乱暴に叫んだ。