闇夜(やみよる)19

 ユイファは、今日が自分の40歳の誕生日であることに夕飯の支度をしながら気づいた。ふと、自分の半生を振り返る。日本に来てから20年、何もなかった。ただ我慢をするだけの味気のない日々だった。ユイファは深いため息を吐いた。最近は何もやる気がしないし、いつも心の中は悲しみでいっぱいだ。自分がそんな状態であることをユイファは初めて自覚した。今日やることを片付けなければ。洗濯物を取り込み、息子が帰るまでに夕飯を作り終える。まずはそれだけだ。それだけを、まずは…。


 ちょうどロンドンオリンピック開催から東京オリンピック開催までの4年間。中国では後に魔境革命戦争と呼ばれる大きな内乱があった。結果として、いくつかの省や県が中華人民共和国からの独立を勝ち取ったが、旧雲南省中部に位置する小国「ジッタリンジン」での人民たちの生活は極貧の中にあった。
 福島県を拠点とする犬山組系広域暴力団「影虎組」は国際結婚仲介業者「GLAY」を組織し、ジッタリンジン国の若い娘と結婚相手を探す(主に中年の)日本人男性との結婚を斡旋する商売を始めた。事実上の身売りであり、実態は奴隷売買と言ってもよかったが、それでもユイファたちジッタリンジン国の若い娘たちは「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見て日本へとやってきた。簡単にだまされ、娘を売り払った親たちは、それでも娘からの仕送りに期待した。そのこともユイファたちへのストレスとなった。GLAYの男たちが、嫁ぐ前に日本語を教えてくれると言ってくれたが嘘だった。なれない国で言葉もわからず、脂ぎった不細工な中年男といじけた性格をした神経質な姑との身振り手振りでしか意思疎通を量れない生活が始まった。
 ユイファと同じ便でやってきたレイラが鳥取県庁のビルから飛び降り自殺をしたのは、彼女たちが日本に来て半年後のことだった。レイラは夫から毎日殴られることを泣きながらユイファに訴えていた。レイラに限らず、ジッタリンジン妻に対する日本人夫の暴力はでありふれたことであり、深刻なことでもあった。日本人夫は彼女たちを同等の人格とみなさなかった。先進国の人間であるという驕りと買った女に対する所有欲からくる未熟な優越感のため、その暴力は多くの場合、悲惨を極めた。レイラの葬式で会った同じジッタリンジン妻の先輩であるチョイは、夫からアバラを折られたことがあると、ユイファに告げた。また、ユイファと同様に姑からのいじめに悩む女たちも多くいた。
 ユイファはというと、他人とは満足に目を見て話すことすらできない夫が、自分の前では威張り散らし、異常な夜の生活の強要をしてくる事実に、いつしか世界に対して心を閉ざすようになった。


 だが、息子が生まれた。息子の存在はユイファにとって希望だった。十年あまり、幸せを感じる瞬間も時にはあった。しかし、息子は変わってしまった。ユイファは教育方針に口を挟むことは許されなかった。夫と死んだ姑に甘やかされて育った息子は、いつか夫と同様にユイファを蔑むようになった。息子はユイファを罵倒し、物を壊し、暴力を振るった。夫は家に寄り付こうとはしなくなった。
 バタン!乱暴にドアが閉まる音がして、ユイファは驚きで飛び上がった。息子が帰ってきた。少しでも心を開いてくれるように優しく接しなければ…
「おかえり…たー君…」
「うるせえぞ!ババア!話しかけんな!!」
「…ごめんなさい」
「クソが!!どいつもこいつもクソったれだ!!」
 息子はテーブルに並べられた夕飯を手で乱暴に払い落とした。ガチャン!と食器が割れて、マーボー豆腐とご飯とが床に散乱する。もう悲しいとも思わない。ただ深い暗闇がユイファの心の中で濃くなっていく。どうすればいいのか。どうすれば。祖国のお父さんお母さん。私はどうしたらいいの。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね、たー君」
「うるせえ!たー君じゃねえ!!俺のことはロビンって呼べって言っただろう!!」
 息子が乱暴に叫んだ。