闇夜(やみよる)20

 全世界に向けて「北日本連邦」の正式な独立宣言をおこなうはずのテレビ放送は予告していたとおりの時間に始められた。時刻は午後12時ちょうど。それはちょうど前日に電波ジャックによる独立宣言がおこなわれたのと同時刻だった。
 最初に画面へと映し出されたのは宮城県にあった古ぼけた野球場である。これはあるプロ野球球団のホームグラウンドとして使用されていたものだったのだが、老朽化しひび割れたコンクリートや手入れのされていない芝(というか、雑草だらけの野原のような状態だ)からはかつて大勢の観客を楽しませていた輝かしい時代の面影は微塵も感じられなかった。しかし、カメラはその廃墟のような野球場を埋め尽くさんばかりに集まった人々の姿を映し出す。観客席にも、フィールドのなかにも人、人、人、人の群れ。彼らはこの演説のために東北7県、そして北海道からわざわざ集まっていた。圧倒するような黒山の人だかりに、放送を観ていた人々は眩暈を興しそうだった。
 その眩暈は全世界に伝染していった。放送はインターネットや衛星放送を通じて全世界に届けられていたのだ。極東の島国で今何が起こっているのか。これに全世界が注目している。しかし、現実的な危機感はない。彼らはあくまで観客であり、多くの人々が口に含んだジャンクフードをダイエットコーラで胃に流し込みながら画面を見つめていた。そして気が向くと彼らはオンライン上のBBSにアクセスし、一言乾いたコメントを書き残すのだ――「テンションあがってきた」などと。しかし、それらは彼らの本当の気持ちでもなんでもない。単なる儀礼的行為なのであり、月曜日の次が火曜日であるという事実にも劣る価値のない言葉が津波のような勢いで書き込まれていった。
 さて、野球場に集まった群衆であるが、彼らのテンションは海外から状況を観察する人々のそれとは比べようがないほど高まっていた。7人の県知事たちはまだ野球場に姿を見せていない。群集は彼らの姿が現れるのを今か今かと待ち望んでいた――しかし、不気味なほど球場は静まり返っている。


「知事たちはどこだ!」
 突然、球場のどこかから怒号が聞こえた(放送用マイクもその声を捉えている。そして不気味な静寂は一瞬で熱狂の時へと変化した――「そうだ!」、「はやく知事をだせ!」、「北日本万歳!」。可燃性のガスに火がついたようにして叫びは広がり、人々の声が球場全体を包み込む。もはやいつ暴動がおきてもおかしくない状態だった。
 その日、球場には5万人もの人々が集まったと言われる。5万の声は次第にまとまりを持ち始め、いつしか北に位置した土地から順にその県名を叫んでいくコールになっていた。北海道……秋田……岩手……宮城……山形……福島……。繰返されるごとに5万の声の結びつきは強固になりはじめ、音量を高めていく。もはや放送用マイクでは捉えることのできないほどの大音量となった肉声によるクラスターは、画面の前に座った人々の耳にはホワイトノイズとしてしか認識できない。
 次の瞬間、カメラのレンズは空中へと向けられた。そこで画面は群集が子虫のよう蠢き続ける球場の風景から、雲ひとつない晴れ模様の青空へと切り替わる。カメラは空中を飛ぶ一機のヘリの姿を捉えている。青の背景に浮かんだ迷彩色のヘリの姿を。
 県名の名を叫び続ける群衆も次第に上空のヘリに気がつきはじめ、県名コールは乱れを見せた。肉声のクラスターは熱帯雨林のジャングルのように入り乱れた歓声に変っていく――しかし、そうだとしても画面の前に座った人々には依然として耳をつんざくようなホワイトノイズでしかなかったのだが。
 ヘリは徐々に高度を下げ始めていた。カメラはその様子をじっと捉えている。ヘリはフィールドのまんなか、ちょうど2塁ベースのあたりに着陸しそうだった。そのあたりにいた人々はローターが巻き起こす風圧が強くなっていくのを感じ、ヘリに押しつぶされないよう着陸のための場所を空け始めた――だが、5万の人間が叫ぶ歓声の勢いは弱まらない。


「音楽が聞こえる……なんだろう」
 そのとき、5万人の中のうち良い耳を持った1人が歓声に混じる音楽の存在に気がついた――1人の気づきは波状的に群集へと広がっていく。その音楽はヘリに備え付けられた野外コンサート用の巨大なPAから流されていた。5万人の人々は自然とその音楽に耳をすませるようになっていく。歓声は弱まっていく。そして、5万人の声とスピーカーから放たれる音の大きさが等しくなった瞬間に、音楽の全貌が明らかになった。
「Also sprach Zarathustra!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 ドイツ語使用者のために用意されたBBSに一瞬で300件も同じ内容の書き込みがなされる。それは音楽が19世紀末に書かれた交響詩ツァラトゥストラかく語りき》であることに気がついたドイツ語使用者たちによる条件反射的な反応だった。地鳴りのように響くコントラファゴットとオルガンの低音、それから通常の倍近くの人数が用意された金管楽器の咆哮によってなされるその「序奏」が、全世界の人々の耳に届く。フィールドに集まった人々に、もはや声をあげるものは誰もいない。皆、陶酔し切った目で宙に浮かぶヘリの姿を眺めていた――なかには涙を流しながら天を仰ぐようにしているものもいたと言う。混沌とした音響模様から静寂への転身は、あたかも群集が集団催眠にかけられているような光景だった。


 そして、ヘリは漸く地上に降り立つ。ドアが勢いよく開けられ、7人の知事たちの姿が群集の前に、そして中継視聴をする世界中の人々の前に表れた。先頭に立っていたのは、秋田県知事、加藤鷹。加藤は残りの6人がヘリを降り、自らの後ろに横一列で立っているのを確認すると、マイクを握り話し始めた――それこそ、世界史に残る正式な北日本連邦の独立宣言がそのとき始められたのである!


「昨日我々は函館沖に浮かぶメタンハイドレート採掘パイプを奪取した。しかし、これは勝利を意味するのか?否!始まりなのだ!我々が離脱した日本国――便宜的にはここでは南日本と呼んでおこう――に比べ、我らが北日本連邦の国力は30分の1以下である。荒廃した農業地、減少し続ける人口、上昇し続ける平均年齢……。それらが北日本の弱さをおのずと物語っている。にもかかわらず我々はこの闘争における勝利を確信している!
 何故か?
 諸君!我ら北日本連邦の目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
 我々は日本の中心である東京やその周辺に豊かな土壌や資産や生活を簒奪され、弱体化させられた、いわば難民である!そして、一握りのエリートと金持ちらが日本国を支配し、至福を肥やすために費やしてきた年月の間、東北に住む我々が人間の尊厳を要求して何度踏みにじられたか。
 北日本連邦の掲げる人民の自由と幸福のための戦いを神が見捨てるはずはない。
 新しい時代の覇権を選ばれた国民が得るは、歴史の必然である。ならば、我らは襟を正し、これからやってくるであろう南日本からの妨害を打開しなければならぬ。
 我々は冬の過酷な寒さと夏のもだえるような暑さを生活の場としながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。かつて、柳田國男は日本における伝統の諸々は北日本の民たる我々から始まると言った。しかしながら南日本の腐敗した畜生共は、自分たちが全日本のの支配権を有すると増長し我々から数々のものを奪っていった。
 諸君の父も、子もその畜生共の無思慮な暴虐の前に死んでいったのだ!この悲しみも怒りも忘れてはならない!我々は今後、この怒りを結集し、南日本政府に叩きつけて、初めて真の自由を得ることができる。この自由利こそ、虐殺された我々の祖先全てへの最大の慰めとなる。
 北日本に住む住民たちよ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ!我らが北日本連邦国民よ!我々、北日本連邦の民こそ選ばれた人間であることを忘れないでほしいのだ。
 我々はここに北日本連邦の独立を全世界に向けて宣言する!そしてこれは南日本の腐った人間どもに向けて叩きつける宣戦布告でもある!我々、勇気ある東北の民は南日本からの圧力に決して屈しない!」


 加藤が握ったマイクを離した瞬間に、群集から歓喜の声が爆発する。球場の内部に再び熱狂の時がやってくる。それは以前のものとは比べ物がない喜びと期待に満ちた気持ちの暴走だ。5万の群集がその場で踊り出し、そのエネルギーは湿度と温度を2度ずつあげる。球場の観客席で、朽ちかけたグラスファイバー製の椅子を無理やりに引きちぎって、天空へと放り投げる姿をカメラは映していた。しかし、人々の顔には暴力や怒りの表情はまったく浮かんでいない。


 宣言は終わった。「テンションあがってきた」。次の瞬間、世界中の様々な言語によって書かれたBBS上に同じコメントが溢れていく――画面の前に座る人々は、まだ観客気分から離れられないでいたのだ。しかし一体、誰が予想できよう?ある日、突然、世界が変ってしまうことなどを。