闇夜(やみよる)36

 黄昏のなか一人の男が鳥取砂丘をなぞるように走る旧国道9号線のガードレールに寄りかかっている。男はアスファルトで乱雑なギンガムチェックを刻まれた車道に向かって忌々しさを振り払うかのように唾を吐いた。「くそっ」。降り立ったばかりの鳥取日本海から吹き付ける風は男の予想より穏やかで、それが男の苛立ちをいくぶん和らげてはいた。男は己の愚かな行為を棚上げにして、ふりかかった不幸を呪い続けていた。「なぜスターだった俺が…」「なぜ俺だけが…」と。

 現在、男は非公式ではあるが北の軍籍に身を置いている。そこで世の中から見棄てられた男に与えられた指令は自衛隊のトップシークレット「クローソー」の破壊。戦争中に何千、いや何万の血で塗られた引き換え券に記されたクローソーのパルスは鳥取市内の女子高生西脇綾香のそれと完全に一致していた。男の目標は西脇綾香の破壊となった。24時間前。男の電脳にクローソーの情報が送られてきた。最新の、ホットなやつ。走査。ウイルスとトラップの可能性を排除してから男はファイルを開く。

 コードネーム=クローソー。1.半径1km以上250kmをカバーする強力なジャミング能力を有し、あらゆる通信手段を遮断、傍受、制御、支配下に置くことが可能。2.瞬間的な移動が確認されている。空間を連続的に移動するのではなく一度完全に消失してから出現点に現れる。原理は不明。但し、当該現象を連続して行ったあとの対象は著しく運動能力が低下する。3.ゴリ…」男は情報をスクロールさせ「これが伝説の戦士Perfume…」と呟く。西脇綾香をスキャンしパルスの分析を行った戦略偵察衛星ソルは3分半に連絡を絶っている。男には逃げ道はない。任務に失敗したとき、男の静脈には致死量の覚せい剤が流れるようにセッティングされているからだ。「俺には後がないんだ…」男の名は加勢大周

 涼しい晩だった。加勢が鼻歌まじりで風呂場のプランターで大事に大事に栽培した大麻に水をやっていたあの晩は…。ちょっと見には、そこらにある高級マンションと変わりはないが、中身は大麻覚せい剤の山。3LDKの部屋にぎゅう詰めにされた大麻覚せい剤のなかで、加勢は事務所からお仕着せの仕事に鬱屈していた。目をピカピカさせながら哂う。「稲村ジェーンの大スターが昼ドラの脇役とは堕ちたもんだな…」加勢が全裸でそう呟いているとき、刑事たちはマンションの共有部を占拠し、各々が電脳で時間表示をみつめて待機していた。その瞬間がきたとき、加勢はなにもすることもなく身体をタイルに押し付けられ冷たい手錠をかけられた。「よろこべ」刑事の声がした。「また、お前さんの名前が新聞のトップニュースに載るぞ」頬に冷たい圧力を覚えながら加勢はかつて自分が演じた刑事役を想い出していた。現実では対面したことのない、例の部屋が待ち構えているのが感じられた。暗い、暗い、廊下。灰色の壁。自供のカツ丼。

 加勢の電脳が警告する。相対距離200m。「いつの間に?」加勢は動揺しながらも強敵の到来に高揚を覚える。殺しの時間だ。ドイツ製ゼロニウム合金の身を翻し国道の中央線を跨いで待ち構える。加勢は戦闘人格をランさせる。「TAIMAHHHHHH!ご機嫌だぜええええ。大周ちゃんよお。いつもどおりにぶっ殺して早いとこキメようぜえ!!」「集中しろ。今までの奴とはケタ違いだ」「おいおい!天下の大スター加勢大周ともあ・ろ・う・お・方が怖気づいちゃってるわけええええ。ひゃあははっははっは」「黙れ、来るぞ、坂本一生」「な、なんだ…こいつはば、化け物か?俺たちの完璧マッチョクールな電脳防壁『予備校ブギ』が片っ端から融けていってるぜ…」「TAIMAHHHHH!」加勢の伸ばした両手から放たれる十条のレーザービームが西脇綾香の身体に吸い込まれていき、次の瞬間、その身体をズタズタに引き裂いた。首がもげ、右手はちぎれ、胴体からは内臓がはみ出した。横たわりピクピクとアメーバのように動く西脇綾香からは鮮血の地図が拡がり道路のギンガムを朱に染めていった。

 「やったか…」「ぶっ殺したぜえええ。兄弟よおお。光より速く動けるやつなんているわけがねえ」「どうやら終わったようだ。お前の言ったとお…」加勢は勝利の台詞を言い終わらないうちに身体を縦に二分されて絶命した。クローソー=西脇綾香は加勢の電脳が警告を発するラグに乗じて、その電脳に進入、視覚を完全に制御下においていた。加勢が見た光景は女神の生み出した幻。それはかつてスターであった加勢が芸能界とドラッグの狭間でみたものよりも残酷で甘美。鳥取の秋の夕暮れを軍事衛星の欠片がつくった流星のオーロラが覆った。加勢と坂本は、最期の瞬間に一輪の大麻の花を思い出していた。彼らが育て、名付けた花を。一輪だけの大麻の花。すべての花を枯らして。その花の名前…竹内健晋。