闇夜(やみよる)8

 25年。それよりちょっと前から話そう。
 世界は深刻なエネルギー危機に見舞われている。石油生産は過度に抑制され、限られた人々の手にしか渡らない。ガソリン車はほぼ絶滅する――そんなものを乗りまわすのは特権的な富裕層だけだ。黒いガスを勇ましく吐き出しながら走るガソリン車は、趣味の悪い人間たちのステータス、権力・富の誇示方法になる。マトモな人間は電気か天然ガスで走るマトモな車に乗ってるんだ。
 それから地球温暖化――これもヤバい。北極と南極、両極から溶け出した氷は海面を寄せて、上げる。オランダはすでに半分ぐらい沈んでしまっている。東京は江東区と港区が常に床上浸水。高さ600メートルを超える21世紀最大のタワーの足元は常に濡れ濡れだ。東京ディズニーランドは?なんとか生きてる。膨大な資金を利用して、建造物を根こそぎ地盤から引っこ抜き(もともと埋立地だったからそれは容易だった)、高尾山の麓まで十数機のヘリで輸送。米軍のヘリがホーンテッドマンションをぶら下げて飛んでる姿は本当に見物だった。さすがにジャングルクルーズだけは移設不可能だったみたいだけど、問題ない。移設先の高尾山はホンモノの熱帯ジャングルみたいだったから。高尾山に自生するバナナ、あれはあれで美味しかった。
 環境の話はもうそろそろ良いだろう?そこで日本は何をしてたか、っていう話。25年前。まだ日本が1つの国だった頃の話。原油も出ない、天然ガスもない。そんな国はエネルギー危機と温暖化にどうやって対応しようとしたか。これはもう涙ぐましい努力だった。頼りの原子力発電所も老朽化しまくってたし、新しい原発を作ろうとすれば国際的な非難を浴びる。そんななかで過疎化した山村なんか一杯に太陽光発電所を作ったりしてね。でも、それだけじゃあ足りなかったんだな。まったく参ってしまうよな。それで新しい手を打つ。それが日本の近海の底に眠ってると言われてたメタンハイドレートの採掘事業だってわけ。とりあえず、温暖化問題は二の次にしておいたんだな。
 しかし、これは21世紀前半にも試された国家的プロジェクトだった。けれども、そのときは大失敗だったんだ。この失敗ぶりは見事だった。国が傾くかってほどのお金をかけて、やれたことといえば深海魚の安眠を妨げることだけだったんだから。そんなものにもう一度チャレンジするのか、って国内外から嘲笑や非難が飛んできた。でも、やったんだ。どうだい、すごいだろ。やれることならなんでもやった。海底調査、衛星からの観測調査はもちろんダウジングまでやった。怪しげな超能力者にも一流プロ野球選手の年俸ぐらい金を注ぎ込んだって話だった。
 調査はじっくりやった。約3年。そして分かったのは函館港から50キロほど西に進んだところの海底があやしいってことだった。そして、掘った……という言い方は正しくない。メタンハイドレートは扱いが難しい物体だ。高い圧力が常にかかってないとすぐに気体に戻って空気に混じってしまう。だから、圧力をかけたまま地上まで運ぶパイプみたいなものが必要なわけ。海面と海底を繋ぐパイプの建設。まずはここからだった。偉い人たちからの命令を受けて男たち(海の仕事は男の仕事だ)はパイプを建設した。パイプ建設用の巨大な船の上で。
 ひとつ目のパイプ――数え方がこれであっているかどうかは分からない。あまりにも巨大なパイプだったし――これは失敗だった。メタンハイドレート、出てこなかった。かかった金は250億円。また非難が偉い人たちのところに飛んでくる。責任を取って総理大臣が代わる。辞めた総理大臣は田舎に帰って陶芸家になったらしい。
 ふたつ目のパイプが建設される。今度も男たちが建設する。しかし、これも失敗だった。かかった金、250億円。総理大臣が代わる。辞めた総理大臣は……暴漢に刺されて死んだ。しかし、まだ諦めない。というか諦められない。大体調査に2千億円はかかったらしいからね。
 まだ、やめられない。
 みっつ目のパイプが建設される。またもや男たちが建設する。しかし、今度は男たちに紛れて3人の巫女がいる。祈るための。「出ろ」って。国家事業で巫女。ほとんど狂ったような事態。でも、本気だったんだ。巫女は全員ホンモノの処女だった。しかもトビきりの美少女たち。絹のような長い黒髪に、淀みのない漆黒の瞳をもった正真正銘の生娘ばかり。みっつ目のパイプの建設中の間に、彼女たちはずっと祈った。ご飯も食べずに。もちろん彼女たちは次第に衰弱していった。でも食べない。そのうち1人目が死んだ。しかし食べない。2人目も死んだ。3ひく2は1。残ったのは1人。彼女は……食べない。さすがに気の毒に思った男は彼女に食事を薦めた。彼女は言った。「ここで食べてしまえば、2人の死も無駄になってしまいます」。もう既に美少女の面影はなく、骨と皮ばかりの老婆のような顔で彼女は頑なに食事を拒んでいた。それで男たちも頑張った。休憩時間は半分にカット。残業は2時間までだったのが3時間までに延長。
 「はやく彼女に美味しい食事を食べさせてやろう」。彼らの思いはひとつになって、その結果、当初の予定より2週間も早くみっつ目のパイプは完成した。男たちはほっとした。そして一人の男がすぐさま、一人で祈祷のための部屋に篭りつづける最後の(元美少女の)巫女に食事を運んでいった。「パイプが完成したよ!はやく。ほら、温かいスープもあるよ。もう食べて良いんだよ!」。男は老婆どころかミイラのようになった最後の巫女にスープを差し出した。しかし、彼女は受け取らない。「完成したんですか。それでは最後にやることがあります」と彼女は言い、ヨロヨロと立ち上がるとまたヨロヨロと外に出て行った。
 男は巫女が夏のアスファルトに揺らめく陽炎のようにおぼつかない足取りで歩いていくのを見守り、彼女が戻ってくるのを待とうとした。「早く元気になって、また美少女に戻って欲しいものだな」などと思いながら。5分が経つ。10分が経つ。そのうちに外で騒ぎが起きる。待つ男の元に別な男が走りこんでくる。「大変だ、最後の巫女さんが海に飛び込んだんだ!」――こうして祈祷は完成された。最後の巫女が自分の命を海に捧げることによって。その結果、メタンハイドレートは出てくれたのだろうか。


 いや、やっぱり出なかったんだ。かかった金、253億5百万円(内訳:通常のパイプ建設費250億円、巫女の命1人につき1億円、残業その他手当て5百万円)。総理大臣はエネルギー庁長官とともに自殺する。
 

 言い忘れていた事実を話しておこう。これまで建設されていたパイプにはそれぞれニックネームがついていた。ひとつ目のパイプには“ブライアン”、ふたつ目のパイプには“デニス”、みっつ目のパイプには“カール”という。名前の由来は分からない。設計者の趣味だという噂はあったけれども。
 そして、よっつ目のパイプ“マイク”の建設が始まる。政府はまだ諦められない。日本の命運は、拠り所はもはやこの函館近海の海底に眠る資源しかなかったから。しかし、これが最後のチャンスだった。失敗続きのプロジェクトが原因で内閣は退陣を迫られていた。出るのか、出ないのか、それはまさに神のみぞ知る感じだった。巫女は5人に増やされた(彼女たちの生死についてはもはや触れないことにしよう)。
 そして、ついにメタンハイドレートは出た。
 それはもうわんさかと。マイクが最初にこの燃料を掘り出してから、たった1週間で当時日本に走っていた天然ガス車全部の燃料が1年分のメタンが採掘された。調査開始から5年の歳月を重ね、プロジェクトは成功に終わったのだ。「素敵じゃないか!」。日本中が歓喜した。まだひとつだった頃の日本中が。「救われた!」。街では号外が配られ、行き交う人々が徐にハグをし合い、なぜか神輿を担いで町内界隈を練り歩く老人たちまで現れる始末。「こりゃ、めでてぇや!神輿でも担がないとやってらんないよ!!」。祝祭、つまりは例外状態。停滞していた経済も少し活気を取り戻した。
 マイクがメタンハイドレートを次々と海面へと運び出し始めて1年が経過する。日本の祝祭ムードはさすがに冷めているが、マイクがメタンハイドレートを海底から運び出す勢いは、当初とまったく変りはない。頼もしいマイク。素晴らしいマイク。日本は息を吹き返したかのように見えた――そこに新しい祭の兆しがやってくる。しかし、それは1年前と同じ種類の祭ではない。つまり、祝祭ではない。呪われた人類が繰返してきた禍々しい祭の兆しだった。函館から50キロ沖でメタンハイドレートを汲み上げ続けるマイクには、それが感じられない。なぜなら彼は単なる巨大なパイプに過ぎなかったから。
 それが25年前。戦争が、この国のすべてと世界の一部を変えてしまった戦争が始まる1ヶ月前の話だ。