闇夜(やみよる)14

「唐突にこんなことを言っても、戸惑ってしまうのは当然かもしれません」
 運ばれてきたボルシチに手をつけないまま、オマンコーノフは続けた。
「あなた方の苦境は、存じ上げています――かつて豊かな農業地帯、米所と呼ばれた東北の地は、いまや例年厳しくなる減反政策のおかげで軒並み休耕状態。荒れ果てた農村は捨て置かれ、無人太陽光発電所だけが運用されている。しかも、そこで発電されている電力のほとんどが関東地方の大都市に送られているのでしょう?もはや東北は産業もなく、人が住むところではなくなっていると聞いています。そのような土地を治めるあなた方の虚しさを私は十分理解しているつもりです。今日私が、こんなところまであなた方を呼んだのは、私がその状況を変える手段を提供するためです」
 そこで岩手県知事、伊藤政則ボルシチを口に運ぶのを止めた。そのおかげで給仕たちはやっと忍び笑いをするのを止めることができた。伊藤が湯気だったその血液のように赤いスープをスプーンで口に運ぶたびに、彼がかけていたティアドロップ型のメガネが曇るのが、彼らにはおかしくてしかたなかったのだ。給仕たちは伊藤のメガネが曇り、そしてその曇りが晴れたところでまた新たに一口を……しかし、そこでまたメガネには曇りが……という一連の流れを、まるで20世紀半ばごろに活躍したアメリカのコメディアンを見るかのように眺めていた。
「しかし、どうやって?」
 後に7人の賢者たちと呼ばれることになる知事たちのうち、誰よりも先に口を挟んだのは秋田県知事、加藤鷹だった。
「大丈夫です。もう既に準備は既に整えてあります。計画は完璧です。後はあなた方が頷きさえしてくれれば、それですべてことが始まります。あなた方が頷きさえすれば、世界は変わり始めるのです」
 オマンコーノフはそう言って、古狐のような歳に似合わない笑顔を浮かべる。その晩、彼はついに「計画」について語らなかった――しかし、君たちは私の語りによって、その計画の全貌をこれから知ることになるだろう――にもかかわらず、そのとき既に7人の知事たちはオマンコーノフが求めるのに応えて、若い小さなロシア人が言う「世界を変える計画」に賛同するつもりだった。無論、彼らは無能な政治家ではなかった。だからこそ、彼らはオマンコーノフの何の具体性も示されない計画に賛同したのかもしれない。


 そして一ヵ月後、函館港沖に浮かぶ巨大なメタン・ハイドレート採掘パイプ、“マイク”に向かって1機のヘリが飛んでいた。その日は、パイプに常駐するエネルギー省所属の職員たちに食料や日常生活に必要な消耗品を運ぶ定期便がマイクのヘリポートへと着陸する予定だった。週に1度、優秀なパイロットのおかげでどんな悪天候であっても時間通りにやってくるそのヘリは、その日に限って30分の遅れをマイクの通信室に伝えている。よく晴れた日だった。通信を受けた職員は「こんな日に限ってどうしたのだろう」と首を傾げた。


 視点を函館沖を飛ぶヘリの内部へと運んでいこう。


 いつもなら職員たちのために用意された物資が積んであるはずの貨物室。そこには新鮮な野菜や洗剤、そして女の香りがまったく消された海の男たちの生活に潤いを与える数冊のポルノ雑誌の代わりに、20人の男が載せられていた。ヘリのパイロットもいつもとは違う――碧眼に金髪の、明らかに日本人とは異なる男だった。
 男は貨物室に繋がる通信のスイッチをオンにして、ロシア語で20人の男たちに話しかける。
「OK。計画通り。このヘリはあと30分でマイクに到着する。その後は、各々計画に沿った行動をしてくれ。以上。少し早いがここでいつものセリフを決めさせてもらう。」
 そこで、ヘリの操縦桿を握る男はかしこまったように2、3度咳払いをした。
「諸君らの健闘を祈る。ブッダの恩恵を授かりますように」
 ここで男は通信スイッチを切る。ヘリは依然としてマイクに向かって飛んでいた。
 貨物室の男たちは、20人の男たちは寡黙だった。函館港に併設されたヘリポートからマイクへの定期便となるヘリの乗組員を全員殺害し、それを強奪した20人の男たち。寡黙だったのは、彼らが見事なプロフェッショナルだったからだ――それも殺しのプロだった。彼らはかつて「元ロシア軍唯一の女准将」と呼ばれた女に雇われた少林寺左派「魔岩窟拳」の精鋭たち。彼らはこれより数十年前、日本の狂った宗教学者、中沢新二朗の後押しで独立したチベット共和国によって「商品」として、輸出品として闇の世界へと流通させられていた。武器も使わず、純粋な白兵戦/肉弾戦によって敵を殲滅させる戦術的兵器を、チベット共和国は売っていたのだ――それは必然的な流れだったと言えるだろう。国際的な後押しによって独立したチベット共和国には国民を養えるだけの産業も資源も存在していなかったのだから。ダライ=ラマ16世が一千年もの間、殺戮の技術を高めてきた「魔岩窟拳」を商品としたのは苦肉の手段だったと言えるだろうが、これによって国民はやっと飢えを凌ぐことができた。
 貨物室の窓から入ってくる日光が、剃りあげられた彼らの頭部を輝かせる。その光はものの見事に西に向かって反射されていた(そのような頭部を持つ者だけが、商品としての流通が可能な精鋭として選ばれていたのだから当然なのだが)。その光が向かう先には、阿弥陀如来が鎮座している。魔岩窟拳の精鋭たちが信じていたのは、彼らの手によってなされる殺戮が、浄土への道を確かにするという経典だった。


 ヘリがマイクに着陸する。ヘリ・ポートには本来であれば物資を運んできたはずのヘリを歓迎する職員3人が、ダンボールを持って降りてくるヘリの乗組員を待ちわびていた。しかし、ヘリのドアが開いた瞬間に彼らを待ち構えていたのは、流血による挨拶だった。3人の首の骨がヘシ折られ絶命するまでに30秒、通信室が占拠されるまでに180秒。5分後には、マイクのなかで働く日本人は全員、呼吸を止めていた。残ったのは夥しい血だまりと、20人のチベット人――元ロシア軍女准将、アナ=ルによって「マッチボックス20」と名づけられた殺戮のプロたちの仕事は今回も完璧だった。そして、彼らの一人がマイクの通信室から、ウラジヴォストクに向けて通信を打つ――「スベテ ヨテイ ドウリ」と。


 次の瞬間、日本のお茶の間は震撼した。


 福島県桧枝岐村から発信されている強烈な電波が、日本列島全域で正規に受信していた地上波デジタル放送をすべてジャックする。お茶の間に映し出されたのは7人の県知事たち、のちに7人の賢者たちと呼ばれることになる男たちだ――テレビ画面に写った男は、カメラに向けて話し始めた。
「日本のエネルギー資源の生命線、マイクは我々が占拠した。これより、東北6県および北海道は『北日本連邦』として日本国から独立する!」
 実際のところ、7人の代表で話すことにになった北海道知事、杉村太蔵はオマンコーノフが用意した原稿を読み上げただけだったのだが、この一言によって戦争は始まったのだ。